シティデュエラーの恋

現代人が結婚しない主な理由は「適当な相手にめぐり会わない」と「気楽さを失いたくない」なのだそうだ。どこかのサイトでどこかのアンケートを引用したものを読んだ。わざわざソースなど調べてないがまぁそうなのだろう。
「誰かと一緒に住むことがまず苦痛」といった意見は実際よく聞く。

今、僕ら個人には誰かとやっていかなくても快適で気楽な生活がある。だからそういうことが言えるのだろう。
自分の時間が欲しいという嘆きは既に現代病のひとつである。

一方世間では給料が上がらない、食品は高くなっていると言われている。実際、厚労省調査(時事通信7月2日)によると生活が「苦しい」「とても苦しい」という回答が合計して61.5%。
「ゆとりがある」「とてもゆとりがある」は合計3.6%だった。電気代も高騰を続け、将来改善の見通しがないなら我々の生活は現状維持だけで手一杯なはずだ。

一方で、男女間の断絶を広げるように生活必需品は安くなっている。

一人暮らし向けの賃貸、一人暮らし向けの家電。家電量販店に行ってあたりを見渡すと、一人で生活するために必要なもの全てが安くなっていることに気付く。安いからと言って簡単に買い揃えられる額ではないのだが、これらを少しずつ購入し続ければ快適で効率的な生活が待っているだろう。

また、都市部に住めばその便利さに驚く。近くには安いクリーニング屋がありコインランドリーがありコンビニがありスーパーがある。コンビニでは一人暮らし向けのお惣菜コーナーが設けられている。
社会は一人で生活出来るように仕組まれており、必要最低限の収入があれば生活維持に困らない。
わざわざパートナーと手分けして家事を行う必要性は感じられない。

              ○
「彼女を作ると貯金が減るから恋愛はしない」という友人がいる。その声がもし本音ならば、資本主義的消費社会の帰結として少子化社会があるのだろう。

元より誰かに好意を抱いたり、好かれたいと言う機能を持たずに生まれてきた人もいるので恋人や友を持てと強制するつもりはないし、子供を産むのが人の仕事だとは言うつもりもないが、誰かと一緒にいる必要がないこの社会はいったい誰が最初に望んだのだろう?

              ○
節約したいなら結婚したほうが正解に近い気がするが、そういった目的で結婚するとなるとロマンが損なわれる気がして避けたくなるのもまた現代人。悲しい性である。

皆、いつか見たドラマや映画のように愛した人と結ばれたい。

僕はこれまで「結婚するのは2番目に好きな人」という声をよく聞いてきた。その度「それは結婚相手に失礼だろ」と思っていたが実際恋人に結婚の話をすると大抵「愛し合っている今現在の状況」は脇に置かれ収入や地位(親に紹介できるか)という話に移る。

では結婚や恋愛とはいったい何なのだろう。僕はこれまで結婚は恋愛の延長線上にあると思っていた。いや、そう思おうとしてきた。しかし今や結婚条件として「自分より収入が高い人」を設定するのは少し無理があり、それを設定しなければ「今より苦しい」未来が待っているかと思うとパートナーというのはやはり作りにくい。

激しい恋心だって片方が冷めてしまうとその温度差がストレスになるから、狂おしい慕情がまともな結婚に結びつくケースは少ない。

認めたくないが結婚(=上手くやっていけそうな人)と恋愛(=自分が情熱を覚えられる人)は別だと考えるべきなのかもしれない。
なぜなら結婚は共同作業なのに対し恋愛のほとんどは”情熱的な単独作業”だからだ。もちろん好きじゃなければ結婚生活は開始すらしないはずなのだが、恋愛感情関係なしに結婚するような不思議な感覚を有する者たちもいる。

              ○
昔から言われてきた「あなたが私に優しくしたいのはわたしのためではなくてあなたのエゴ」という言葉が正しければ、恋は誰かを通して自分を愛するというナルシシズムに他ならない。

屁理屈が溢れてしまう前に、僕らは進化を止めねばならなかったのではないだろうか。

              ○
近代化を果たした社会の仕組み上、職や趣味の違いからAさんには出会いがたくさんあるのにBさんには一切出会いがない、というのはよくある。Bさんがいくら出会いを欲しても、一人で生きていけるこの社会はBさんにわざわざそれを用意しない。

街に住む人間の願いには必ず経済が割って入る。テレクラ、出会い系、街コン、結婚紹介所、男によってはそこがキャバクラであったりスナックであったりバーだったりする。偶然性を埋めるために金を仲介させるのは致し方ない事だ、と僕らは刷り込まれている。

個人と個人の間に金が詰め込まれてようやく二人は出会う。二人が出会い、恋人になればここでようやくサプライヤーはその役割を終える。次は、今まで注ぎ込んできた金はどこへ向かうのかという話になる。

ほとんどの場合はプレゼントや外食費といった名目で経済活動は保護される。この流れがもっとも分かりやすいのは恋人同士が男女であるケースだ。

男のほとんどは金以外の要素すなわち内面というものがあるからこの女と付き合えているのだと信じてやまない。また自分が支払われる側(すなわち商品)であると自覚する女は少ない。

              ○
前述の通り、仲介者がなくなっても恋人たちが営みを続けている以上経済は介入し続ける。企業は消費促進のためにより多くの記念日を彼らに授ける。クリスマスやバレンタインデー、誕生日や付き合ってX周年等、なるべく恋人たちに夢を見続けるように。

恋人たちは用意されたものをこれが恋人たちのルールであると信じ込み、より多く消費することで互いを確かめ合う。
恋人たちは負債者だ。罪を犯したわけでもなく何かを借りたわけでもないのに社会に金を返し続ける。

一緒にすごす時間や普段交わされる言葉より、確かに、高級ブランド品やコース料理のほうが慕情を量りやすいだろう。記念日を大事にされなければ愛されていることにはならないのだろう。

恋人になれば食事は外食、記念日にはギフト、更なる要求に応えるための同棲、同棲すれば結婚、結婚すれば見栄えのある結婚式、その後は子供、子供がいれば家という願いが巨大な市場の流れを止められなくする。全員がそうだとは言わないが一定数このミームが存在することは否定できない。

これが社会の求める「仕組まれた恋人たち」の姿である。この事実に気付いていない(または理解できそうもない)ならあなたに自意識というものはない。農場で育てられている鶏のように、ただ文明に生かされているだけだ。そこにも別れが用意されているのは、マラソンに疲れリタイアするのと同じくらい当然のことだ。

              ○
街に住みながらそのミームから逃れて生きる男女が現れる。
彼らがシティデュエラー(都会に住む人々)の恋人である。

愛し合うことを恐れ、恋慕を捨てた恋人たち。希望を捨て、けれど絶望もしない環境に適合した新しい恋人たち。身体を重ねながらも決して愛を語らない恋人たち。

彼らは傷付くことを恐れ、分かり合える日など望んでいない。

              ○
「セックスが終わったら帰ってほしい。タクシー代出すから」
男も5人集まれば1人はこういう意見を述べるというものだ。

女性陣からの本音でも「セックスが終わったら眠るまで傍にいて、目覚めた時には帰っていてほしい」というのも聞いた。

「別れよう」たったこれだけライン越しで伝えて恋人たちは熱を忘れる。入会は簡単で、解約手続きはもっと簡単なシティデュエラーたちは別れの後、暇潰しになる程度でしかお互いを思い出さない。

              ○
いつしかこの瞳には全てが悲しく映っていた。

いつまでもそばにいて欲しい人が、いつかいなくなるのだと気付いてしまったその瞬間、この街は冷たいものだと感じるようになった。

あれだけ狭く思えた街は、さよならの後、恋人を痕跡も残さず隠してしまう。
僕がいなくなっても絶対にこの街は眠らない。

誰ともやっていく必要がない街。
感傷など感じる必要がない街。
愛し合う必要のない街。

皆が愛し合っていたのは一体いつの時代の話なのだろう。


今日も街は答えてくれない。

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