いつかブログが燃え尽きるまで

自分が善人だと思える日には悪を書いてきた。
僕は決して善人ではないと言い聞かせるためだ。

実際、僕は善とは遠くかけ離れた場所に立っている。

「生き残るためなら殺してでも生き延びろ」

僕が大切にすべきだった父や妹の死を見届け、その事実だけを背負って生きていくためには善を棄てるしかなかった。深く見つめれば見つめるほど、死はなによりも尊く、一人の身で背負えるものではないと思う。

結論から先にいうと僕が自分自身を自殺から救うためには「自分が善と思っているものを放棄すること」が唯一の頼みだった。

僕は儒教に生きてきたわけではないが、東アジアにおいて2000年以上にも渡って影響力を発揮してきたこの思想は当然現在の日本社会にも根強く広がっており、僕もいつしか規則の中で生きようとする儒学者の一人だったと言える。東アジアはどこの国も宗教が深く浸透しすぎており普段どおり行われている生活を行うネイティブ達には当然それが見えない。

強制的な世間感情は僕を苦しめるだけだったし、逸脱したものを痛めつけるシステム「学校制度」は僕に生きる術を教えてくれなかった。
別に、そのことを嘆いているわけではない。僕が嘆いているのは「自分の中の善を棄て切れなかったがために自殺を選んだ者たち」についてだ。
いじめさえなければ、妹は死ななかっただろう。
押し付けさえなければ父も死ななかっただろう。

どうして、弱い人間は自殺するその時だけ勇気を出すのだろう。何故か?分かるか?
自分に唯一自信が持てる動作、それが自分を殺すことだからだ。


確かに悪人に堕ちるくらいなら死んだほうがマシだと思う日がある。しかし犯罪のほとんどは社会現象である。いうならば政治の帰結である。自分がしていることが善か悪かで悩むほどの道徳心があるのならいっそ堂々と悪に堕ちればいい。死ぬくらいなら、何かのせいにして、世間の目を気にせず生きれば良いのだ。

本当の悪は、自分が悪かどうか分かっていない。元々、対比物もなくそこにいたのだ。


僕はただのブロガーなので統計的資料は用意しないが、自殺する人間が多い国はだいたい儒教だ。皆、生きているのに生を感じられず、生きるより死んだほうがマシだと思っている。知らない者まで救わなければならぬ経世済民は知的負荷に耐えられない人々にとって苦しみでしかない。

全てが、面倒だ。

「誰にも迷惑をかけるな」「年上を敬え」
学校による教育によるものか、親による教育によるものかは未だ知らない。しかしSNSで個人の発言が努力なしで知れ渡りやすくなったこの社会で、その押し付けに耐えられなくなった若者たちの意見は年々顕在化している。

「老害ども」「在日ども」
売国奴と括られるその人たちを敵と看做すことで考えることを放棄している。

人々は不満の捌け口を日本や、いや、海外の責任だと考え始めている。資源の少なさからくる不平不満を他国の責任にすることで責任逃れを試み始めている。


僕は悪だ。虫けらのような悪だ。ただこの悪は僕の悪だ。僕はこの世界全てが憎いがこの魂とその悲しい目を憎むのであって、壊れた心のその諸悪を他者に求めたりはしない。
苦しいときは自分を痛めつけるか女の首を絞めて鎮める。咳き込む女たちを見て涙するのが僕の壊れた心の慰めの報酬だ。

身体だけが目当ての女の過去に興味はない。射精した後に我が血を呪うのはそれ以外の暇潰しを知らないからだ。

僕は悪だ。だからこうして悪を書いている。
悪を書くことは、そのまま自分自身との闘いなのだ。再会し、抱き合い、愛を謳うべきだった妹や父を亡くした僕が唯一できる呪縛のエントリーだ。傷つけられたからといって誰かを傷つけていいはずはない、そう言いながら、僕は僕の悪を飼いならせずにいる。

確かにぼくは閉じた人間である。肥大化した自意識の迷路から出ることはできない。


狂った魂は狂いきれずキーボードを打ち続ける。


「ありがとう」も「さようなら」もこの世界からなくなって、僕は一人になってしまった。

「僕は永遠に赦されない」
愛する者、愛すべきだった者の死が教えてくれたことはシンプルだ。

赦せる者もまたもうこの世にいない。神を信じなくなった代わりに罪を背負うことにした僕が往く道は暗く凍っている。

死ぬまで赦しを乞え、書け、エントリーしろ。

いつかブログが燃え尽きるまで。

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