承認欲求と自己顕示欲の違いを知って自分の存在に苦笑いするのをやめよう

世間の闇を見たくなったら知恵袋と発言小町を読んでいる。

聞こえは悪いだろうが、ホラー映画が好きだとか絶叫マシーンが好きだとか、そういうベクトルのものだと思って欲しい。いや、このブログを読んでくれている方は既に僕の趣向というもののほとんどを把握してくれていることだろう。

本日は「旦那が給料を全部渡してくれない」というトピにぶら下がる「渡す義務はない」や「給料の明細を明かしてくれるよう話しましょう」といったコメントとトピ主の反応が面白かった。

僕自身は「会ったこともない相手に相談せずに当事者で話し合え」程度にしか思わない。これを言ったら元も子もないのだが、どんなトピにしろ大抵最終的には「そういうことは友人に話したら」と思う。しかしながらこの話せる友人がいないという事象が現代型の孤独である。語るまでもなく、相談相手がいれば書き込まずに全て済むのだ。

どの年代に遡っても相談相手に恵まれていた時代などないだろう。これまで窮屈な社会生活で過ごす人々がこれら匿名掲示板を手に入れ発展させたということには意味があるのだろう。
孤独さえ読めるようになったら、次の孤独は何であろう。


              ○
同じような話を何度も何度も書いていて、最近ではもう自分のことは書き終えた気がしている。

半ばテーマにしていた「男女の隔たり」「街に住む人の孤独」も80, 90年代の邦楽を聴いているうちにこれはもうこの時代に全部言い終わっているんだなと思うようになった。どうせ最後に愛は勝つと言うしかなくなる。

              ○
自分がいかにクズか書いても飲み過ぎた昨晩の言い訳にしかならない。

作家はなぜ書くものがなくなったら「作家はなぜ書くのか」書きたがるのだろう。

と、書いたところで適当に本を手に取って開くと「作家は書くものがなくなってからが勝負」とあるので、何故か書きたがる作家に疑問を持つのは止めよう。


              ○
書く。これは自己顕示欲だ。
ということでようやく今日の題について触れる。

自己顕示欲という言葉が既にあるのに関わらず何年も前から「承認欲求」というネットスラングが流行りだした。これについては読者もそれが大体何であるか分かっているものとして話を進める。


自分の存在を知って欲しいという自己顕示欲はごく自然な欲求である。それは承認欲求でも共通する。ただ、自己顕示欲を通り越して承認欲求だけで書いている人は負の感情を刺激するような過激な文章を書くか、炎上商法に手を出す。
コンビニの冷蔵庫に入った画像をツィッターにあげるなど企みなしで炎上してしまう人もよく見かけるがそれはちょっと阿呆な例外だ。

はてなで炎上しやすい文章を書くなり、美学のない行動をYouTubeにあげるなりの表現をしてもそこに「自分はここにいる」というメッセージ性が無ければそいつは最後に苦しさだけが待っている承認欲求だ。

承認欲求だけで人は物語を書けないから、結局炎上しやすい場所に住むしかなくなる。

物を壊せば大人が振り向いてくれると思って行動するのと、壊さなければならぬ理由があって行動するのは大きな差があるだろう。

「見てくれ俺の仮面ライダーカード」じゃなく「仮面ライダーカードが好きな俺はここにいるんだ」という自身の存在のアピールがあってはじめて苦しい承認欲求から自己顕示に変わるのだと思う。

端的に述べるが承認欲求は救われたいという欲求だ。
救ってくれるのは唯一彼の自己顕示欲だ。

自分探しの旅など意味はないと人は言うけれど、旅の種類はたくさんあって時に家でさえ旅の途中であり、書くことも旅の途中なので、地獄のミサワみてニヤニヤ嘲弄しているより「なりたい自分は何か」という自分探しをすれば良い。

どのような表現方法を用いようがいずれにせよ人は自分自身と決着をつけなければならない。放棄するなら死ぬまでモブキャラだ。

と、なんだか熱くなってきたのでこのエントリーは終了しよう。

ではまた。

PS
寒い日が続いている。嫌になるよ。しかしまぁ自然のやることに文句は言えないよな。

俺の方は二日酔いも治まって元気だ。

君も体を大事にして過ごしてくれ賜え。

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