別れ③(了)
朝まで飲み、千鳥足で改札を抜ける。通勤ラッシュに逆らうように電車に乗り込んだ。
地下鉄は相変わらず生きる戸惑いに満ちている。
物事は、深く考えないようにしたい。
イヤホンを装着し、好きな音楽を再生する。音量を上げて目を閉じる。大衆の中で一人になりたい時いつもこの手段を取るようにしている。しかし、今日は一人になれた気がしない。
地下鉄に乗る前の空はまだ瑠璃色だったのに駅を出た頃には透き通るほど青い空が待っていた。清々しくないのはぼくだった。
帰る度に、久しぶりに帰ってきたなと思う。前回帰ってきたのは3週間ほど前だっただろうか。
玄関には投函されたきり放置してある郵便物。期限の切れた不在届け。トイレの電球ももう3ヶ月は切れたままだ。冷蔵庫の中身は相変わらず缶ビールしか入っていない。
窓際に置かれた観葉植物が枯れていた。
窓を開けて換気し、必要のなさそうなものをゴミ袋に入れていく。必要に見えるものも捨てていく。きっとぼくには必要ない。この家を引き払っても困ることはないなと思いながら掃除機をあてた。
コーヒーを煎れて休憩するために電気ポットをセットする。結局コーヒーミルは見つかった。
水が沸くのを待っている間に寝ころんでいたら知らず知らず寝ていた。
今日もフランシスベーコンが描いた絵のような夢を見た。夢のある話も、希望も抱けないまま生きているこの世界で、夢中になれるものを探し疲れてみる夢は悲しい。
目覚めた後のぼくはいつも空白に近いものになっている。外はもう夕方だった。酒がまだ体に残っている気がする。上体を起こしてしばらく何も考えずに冷蔵庫の駆動音を聞いていた。
どうしてぼくは生きているのだろう。生きるとは何なのだろう。生き甲斐さえあればぼくは変われそうな気がする。
掃除の続きをしようと思った。引き出しをあけると、歩美さんからのラブレターを見つけた。そこにはありったけの愛と選び抜かれた活字が並んであったが、今はもうぼくを傷つける言葉以外の何物でもない。ぼくはラブレターを破りゴミ袋に入れた。
掃除に飽きるとシャワーを浴びた。明日会社に行くかは分からないが髭を剃った。最近休みがちだ。髪を乾かし着替えたら次はコンビニまで歩いて向かった。生き甲斐とは何であろう。コンビニに着くまでに答えを見つけようと思った。
当然何の答えもないままコンビニに着いた。
缶ビールを棚から出して、じっと見つめる。過ちをアルコール度数5%で忘れられたなら…馬鹿馬鹿しいと思って考えるのはやめた。
ぼくは痛みを癒すために酒を飲んでいるのだろうか。違うのは分かっている。こんなことで癒されるわけがない。そう思いながらレジに並んだ。
帰りながら飲んだ。いったい何をすればこんな自傷行為みたいな生活を終わらせられるのか考えていた。ろくに仕事もせず、毎日ボロボロになるまで飲んで、反省は何一つない。
自分さえ大事にできなければ、きっと誰も大事にできない。
自分さえ愛してないなら、きっと誰も愛せない。
信じられるものは何だろう。自分自身を貶めると分かっていて、どうしてぼくは酒を飲むのだろう。家に着くまでに、裏切らないものを洗い出して今後はそれしか信じないようにしようと思った。
誰だって他人を信じて裏切られるくらいなら、裏切らないものを信じたい。
決して裏切らないもの、それは人ではない。自分でもない。きっとアニメかアイドルは裏切らない。人は返事をしてくれないものを愛するものだからだ。
公園のベンチに座り、ビールを飲みながら桜の木を見ていた。桜は散ったが、街灯の光が葉を白い桜のように見せていた。憂鬱さや、怠惰な檻の中で、ぼくは何を成し遂げてきただろう。そしてこれから何を成し遂げるだろう?
ぼくが死ぬその最後の日は、やはり一人でいくのだろうか。
いや、誰も巻き添えにせず一人で死ねたら、それが良いことかもしれない。
二本目のビールを開けた。そうして人間にとって成長というのは一体何なのだろうか考えた。
知りたくないことを知るのが認識というもので、それは決して成長なんかじゃないことを願う。いくら飲んでも悲しみは消えない。
今日こそは家に引きこもっていようと思っていた。しかし、一杯だけならバーで飲んでも良いような気がしてきた。
酒と女と自堕落な日々を続けて、誰も愛せず、自分さえ大事にできない男が、たった一人の誰かに注力できたらどれほど幸福だろう。ぼくが酒を飲んでも誰も迷惑しないはずだ。そう思って、残りのビールを飲み干した。バーに行く前、さっき寄ったコンビニの前を通る。
空き缶をゴミ箱にいれた。店員に顔を見られた気がする。
○
有るのが難しい。有り難い。ありがとう。
左様ならば仕方がない。左様ならば。さようなら。
○
「ヒロシさん、今どこにいるの?」
歩美さんからメールがあったのは深夜12時を過ぎたところだった。ぼくはバーにいたけれど難波界隈の居酒屋で飲んでいる、と返信した。些細な嘘をついた。そう答えたほうが良いような気がした。
すぐに歩美さんから返信がある。
「一人で?」という一文だけだった。一人だよ。どこかで飲んでいるの?飲まない?と返信した。
歩美さんは酔っていた。
会いたかった、淋しかったと言うのはあまりに恥ずかしいので言わなかった。とりあえず静かに飲める場所を探した。しかし深夜も開いていて静かに飲めるバーというのはなかなか少ない。結局、朝までやっているチェーンの居酒屋に入った。店内は広かったが客がいないために静かだった。
生ビールを二つ頼んだ。店員がオーダーを届けに戻っていくと僕は歩美さんに元気でしたか、と聞いた。
「元気でしたよ」という。
僕たちは付き合っていた時も敬語で話していた。
「今日はどこかで飲んでいたんですか」
「はい。ちょっと飲みすぎてしまって」
「はは。顔が赤いですよ」
「…ヒロシさんは元気でしたか」
「んー。元気と言えば元気ですけど、あまり無事じゃないです」
「どういう意味ですか?」
「あれから、あまり帰ってないです。家に帰っても誰もいないし。仕事が終わったらとりあえず立ち飲み屋からスタートな毎日ですよ。」
「じゃあ、私たちが別れる少し前の生活と一緒じゃないですか」
「そうですね。ご存知の通り掃除をマメにする人ではないので、もう部屋が荒れていますよ」
「あはは。変わらないのね」
「変わらないんじゃない。変われないんです」
会話の裏で気になるのは、歩美さんにはもう彼氏がいるのではないか、ということ。僕にまだ言い足りないことがあるのではないか、ということだった。
中腰でいるような落ち着かない気持ちでする会話は弾むようで弾まない。二人とも少し酔っている。エモーショナルに傾くのか、何もなく時間が過ぎるのか、きっと二人には分からなかった。
おつまみをほとんど残した状態で会計を済ませた。
「ここは出すわ」
「いえ、いいですよ、呼んだのはぼくですし」
「まぁ、まぁ」
始終よくあるような会話で時間が過ぎたように思う。
帰り際、タクシー乗り場まで送っている途中、隣にいるのが女性であればいつもこうなるのだが―歩美さんを帰したくなくなった。ぼくは人影がないのを確認すると半ば強引に肩を抱き寄せキスをした。歩美さんも抵抗しなかった。
もう、恋人ではなくなった人とするキスは冷たい。
ぼくたちは一緒に寝ることになった。
荒れたぼくの部屋を見ても歩美さんは何も言わなかった。
部屋に着くなりぼくたちは求め合った。もう恋人ではない歩美さんの裸は別人のようだった。きっと歩美さんは、ぼくらが別離してから他の男と寝た。要らない想像が複雑な心境にさせた。
力一杯にきつく抱きしめた時、歩美さんは悲痛とも快楽ともどちらとも言えない喘ぎ声を出した。汗だくになり絡まりあう体は熱を高めていく。
二人が果てた後、息の荒れたまま抱きしめあった。あれだけ愛し合っていた二人が、今は恋愛感情などなく、ただ淋しさから情事に至ったのだと悟ったのはこの瞬間だった。
歩美さんは泣いていた。一方、ぼくは空っぽの心は今どこに出て行っているのだろうかと考えていた。
以来、歩美さんとは会っていない。別れ際、さよならとは言わなかった。ぼくたちの別れは、もっと前に過ぎていたからだ。
地下鉄は相変わらず生きる戸惑いに満ちている。
物事は、深く考えないようにしたい。
イヤホンを装着し、好きな音楽を再生する。音量を上げて目を閉じる。大衆の中で一人になりたい時いつもこの手段を取るようにしている。しかし、今日は一人になれた気がしない。
地下鉄に乗る前の空はまだ瑠璃色だったのに駅を出た頃には透き通るほど青い空が待っていた。清々しくないのはぼくだった。
帰る度に、久しぶりに帰ってきたなと思う。前回帰ってきたのは3週間ほど前だっただろうか。
玄関には投函されたきり放置してある郵便物。期限の切れた不在届け。トイレの電球ももう3ヶ月は切れたままだ。冷蔵庫の中身は相変わらず缶ビールしか入っていない。
窓際に置かれた観葉植物が枯れていた。
窓を開けて換気し、必要のなさそうなものをゴミ袋に入れていく。必要に見えるものも捨てていく。きっとぼくには必要ない。この家を引き払っても困ることはないなと思いながら掃除機をあてた。
コーヒーを煎れて休憩するために電気ポットをセットする。結局コーヒーミルは見つかった。
水が沸くのを待っている間に寝ころんでいたら知らず知らず寝ていた。
今日もフランシスベーコンが描いた絵のような夢を見た。夢のある話も、希望も抱けないまま生きているこの世界で、夢中になれるものを探し疲れてみる夢は悲しい。
目覚めた後のぼくはいつも空白に近いものになっている。外はもう夕方だった。酒がまだ体に残っている気がする。上体を起こしてしばらく何も考えずに冷蔵庫の駆動音を聞いていた。
どうしてぼくは生きているのだろう。生きるとは何なのだろう。生き甲斐さえあればぼくは変われそうな気がする。
掃除の続きをしようと思った。引き出しをあけると、歩美さんからのラブレターを見つけた。そこにはありったけの愛と選び抜かれた活字が並んであったが、今はもうぼくを傷つける言葉以外の何物でもない。ぼくはラブレターを破りゴミ袋に入れた。
掃除に飽きるとシャワーを浴びた。明日会社に行くかは分からないが髭を剃った。最近休みがちだ。髪を乾かし着替えたら次はコンビニまで歩いて向かった。生き甲斐とは何であろう。コンビニに着くまでに答えを見つけようと思った。
当然何の答えもないままコンビニに着いた。
缶ビールを棚から出して、じっと見つめる。過ちをアルコール度数5%で忘れられたなら…馬鹿馬鹿しいと思って考えるのはやめた。
ぼくは痛みを癒すために酒を飲んでいるのだろうか。違うのは分かっている。こんなことで癒されるわけがない。そう思いながらレジに並んだ。
帰りながら飲んだ。いったい何をすればこんな自傷行為みたいな生活を終わらせられるのか考えていた。ろくに仕事もせず、毎日ボロボロになるまで飲んで、反省は何一つない。
自分さえ大事にできなければ、きっと誰も大事にできない。
自分さえ愛してないなら、きっと誰も愛せない。
信じられるものは何だろう。自分自身を貶めると分かっていて、どうしてぼくは酒を飲むのだろう。家に着くまでに、裏切らないものを洗い出して今後はそれしか信じないようにしようと思った。
誰だって他人を信じて裏切られるくらいなら、裏切らないものを信じたい。
決して裏切らないもの、それは人ではない。自分でもない。きっとアニメかアイドルは裏切らない。人は返事をしてくれないものを愛するものだからだ。
公園のベンチに座り、ビールを飲みながら桜の木を見ていた。桜は散ったが、街灯の光が葉を白い桜のように見せていた。憂鬱さや、怠惰な檻の中で、ぼくは何を成し遂げてきただろう。そしてこれから何を成し遂げるだろう?
ぼくが死ぬその最後の日は、やはり一人でいくのだろうか。
いや、誰も巻き添えにせず一人で死ねたら、それが良いことかもしれない。
二本目のビールを開けた。そうして人間にとって成長というのは一体何なのだろうか考えた。
知りたくないことを知るのが認識というもので、それは決して成長なんかじゃないことを願う。いくら飲んでも悲しみは消えない。
今日こそは家に引きこもっていようと思っていた。しかし、一杯だけならバーで飲んでも良いような気がしてきた。
酒と女と自堕落な日々を続けて、誰も愛せず、自分さえ大事にできない男が、たった一人の誰かに注力できたらどれほど幸福だろう。ぼくが酒を飲んでも誰も迷惑しないはずだ。そう思って、残りのビールを飲み干した。バーに行く前、さっき寄ったコンビニの前を通る。
空き缶をゴミ箱にいれた。店員に顔を見られた気がする。
○
有るのが難しい。有り難い。ありがとう。
左様ならば仕方がない。左様ならば。さようなら。
○
「ヒロシさん、今どこにいるの?」
歩美さんからメールがあったのは深夜12時を過ぎたところだった。ぼくはバーにいたけれど難波界隈の居酒屋で飲んでいる、と返信した。些細な嘘をついた。そう答えたほうが良いような気がした。
すぐに歩美さんから返信がある。
「一人で?」という一文だけだった。一人だよ。どこかで飲んでいるの?飲まない?と返信した。
歩美さんは酔っていた。
会いたかった、淋しかったと言うのはあまりに恥ずかしいので言わなかった。とりあえず静かに飲める場所を探した。しかし深夜も開いていて静かに飲めるバーというのはなかなか少ない。結局、朝までやっているチェーンの居酒屋に入った。店内は広かったが客がいないために静かだった。
生ビールを二つ頼んだ。店員がオーダーを届けに戻っていくと僕は歩美さんに元気でしたか、と聞いた。
「元気でしたよ」という。
僕たちは付き合っていた時も敬語で話していた。
「今日はどこかで飲んでいたんですか」
「はい。ちょっと飲みすぎてしまって」
「はは。顔が赤いですよ」
「…ヒロシさんは元気でしたか」
「んー。元気と言えば元気ですけど、あまり無事じゃないです」
「どういう意味ですか?」
「あれから、あまり帰ってないです。家に帰っても誰もいないし。仕事が終わったらとりあえず立ち飲み屋からスタートな毎日ですよ。」
「じゃあ、私たちが別れる少し前の生活と一緒じゃないですか」
「そうですね。ご存知の通り掃除をマメにする人ではないので、もう部屋が荒れていますよ」
「あはは。変わらないのね」
「変わらないんじゃない。変われないんです」
会話の裏で気になるのは、歩美さんにはもう彼氏がいるのではないか、ということ。僕にまだ言い足りないことがあるのではないか、ということだった。
中腰でいるような落ち着かない気持ちでする会話は弾むようで弾まない。二人とも少し酔っている。エモーショナルに傾くのか、何もなく時間が過ぎるのか、きっと二人には分からなかった。
おつまみをほとんど残した状態で会計を済ませた。
「ここは出すわ」
「いえ、いいですよ、呼んだのはぼくですし」
「まぁ、まぁ」
始終よくあるような会話で時間が過ぎたように思う。
帰り際、タクシー乗り場まで送っている途中、隣にいるのが女性であればいつもこうなるのだが―歩美さんを帰したくなくなった。ぼくは人影がないのを確認すると半ば強引に肩を抱き寄せキスをした。歩美さんも抵抗しなかった。
もう、恋人ではなくなった人とするキスは冷たい。
ぼくたちは一緒に寝ることになった。
荒れたぼくの部屋を見ても歩美さんは何も言わなかった。
部屋に着くなりぼくたちは求め合った。もう恋人ではない歩美さんの裸は別人のようだった。きっと歩美さんは、ぼくらが別離してから他の男と寝た。要らない想像が複雑な心境にさせた。
力一杯にきつく抱きしめた時、歩美さんは悲痛とも快楽ともどちらとも言えない喘ぎ声を出した。汗だくになり絡まりあう体は熱を高めていく。
二人が果てた後、息の荒れたまま抱きしめあった。あれだけ愛し合っていた二人が、今は恋愛感情などなく、ただ淋しさから情事に至ったのだと悟ったのはこの瞬間だった。
歩美さんは泣いていた。一方、ぼくは空っぽの心は今どこに出て行っているのだろうかと考えていた。
以来、歩美さんとは会っていない。別れ際、さよならとは言わなかった。ぼくたちの別れは、もっと前に過ぎていたからだ。
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