別れ①

夜中目覚めるときは、決まって悪い夢を見る時だ。今朝は、深夜どこかで激しく雷が落ちたせいもあって夢の中でも雷が鳴った。

目覚めればいつも布団を被っていない。暑さで退けてしまう。
今日こそは風邪を引いたかもしれない、と思う。

朝7時過ぎに歩美さんに起こしてもらう。風邪は引いていない。食卓には朝ごはんが用意されてある。ない時もあるが、かといって不満はない。食べたければ自分で用意すれば良いところを普段用意していてくれているのだ。

僕は洗面所に行き歯を磨く。口の中の気持ち悪さを早く流してしまいたい。そしていつもの位置に戻ってきたら録画していた番組を見ながら朝食を食べる。歩美さんは職場で起こったあれこれを言う。愚痴に近い時もあるが、そういうのを聞くのが彼氏である僕の役目だ。僕はテレビを横目にうんうん言いながらほおばる。黙って聞いているせいか、僕の方が食べ終えるのが早い。

食器を洗った後、口をゆすぐ。今日はどのシャツを着ようか考える。会社に行く準備をして、行ってきますと言うといつも歩美さんは玄関まで見送ってくれる。アメリカン・ショートヘアーのルルも遠くからこちらを見ている。

歩美さんはいつもおにぎりを持たせてくれるが、これからの季節を思って、今日以後は用意してくれないと言う。
僕らは10秒ほど抱き合ってキスをする。日によってはまた抱きしめあう。
僕は急いで階段を下りる。
折り畳み自転車の傍には時々トラ猫がいる。僕の機嫌によってはトラ猫の機嫌も良さそうに見える。自転車に乗っている間、傷んだおにぎりを食べて病院送りになった11年前の出来事を思い出した。

駐輪場に折り畳みの自転車を置いて地下鉄に乗る。電車はいつも何故か乗り損ねる気がするので構内では足早になってしまう。会社まで片道50分程度かかる。時給1550円、ほとんど残業はないから一日いけば12400円だ。交通費は出ない。電車で来てもロードバイクで来ても到着時間はさほど変わらないから、なるべくロードバイクで来るように心がけたい。

僕は事務職に就いている。契約書を作成したり、製品説明書を作成したりする。今の時期はそれほど忙しくない。むしろ暇さえ感じる。
この会社と僕の役目はなかなか気楽だ。上司は僕にスケジュール管理ごと任せてくれる。僕は黙々と作業するのが好きなのでそのほうが都合良い。
「おはようございます」「お先に失礼します」これだけしか言わない日だってある。誰とも話さず済むなんて最高だ。

今年2月にこの会社に派遣された。大きな企業だ。今までは他の職種の仕事についていたが、前職の知り合いから良い条件の仕事を提示してくれたのもあって鞍替えすることにした。職を変えた結果、自分に合う職種にありつけたので僕は運が良いほうだと思う。本当はどこかに就職して今より安定した収入が欲しいが致し方ない。派遣は就職先が見つかるまでのアルバイトみたいなものだと考えているが、いざ働いてしまえばなかなか就職活動に専念できない。
3年もすれば派遣から直接雇用に切り替えてくれる可能性もあるみたいだし、のんびりやっていこうと思う。

ところで、このオフィスは7月中旬に移転するみたいだ。事前に聞いていたことだったが、慣れてきた今では移転してほしくないと思うようになった。このオフィスには食堂が二つあり、売店もある。喫茶店やATM、旅行代理店もあって非常に便利だ。移転先がどんな環境かは分からないが今より良くなることはなさそうだ。

12:15に昼休憩のチャイムが鳴る。僕はあまり昼食を取らない。昼寝を優先したいからだ。30分ほど眠って、目覚めた時に時間と体力に余裕があれば食堂に向かう。食堂は安い。400円もあればお腹いっぱいになる。それに美味しい。
良くないのは食堂の眺めだ。作業服を着ているものが何百人も集まって飯を食べていたら、ここは監獄か収容所かのどちらかではないかと思う。僕は昔から、学校でもどこでも、このどこか管理されている感覚が苦手だ。

それに似通った理由で僕は大きくて部屋数の多いマンションには済まない。1階から最上階までが永遠に続くような、全て同じ扉のマンションに住んでいると、自分がお金を払って収監されているようにしか思えない。だから住む家はなるべく監獄感の少ない部屋が良い。

17:30の定時になったので帰社する。
今日は修業と称してホテルのバーでアルバイトをする予定だ。カウンターが8席、4名が座れるテーブルが3つある。週末はピアニストを呼ぶ。なかなか忙しく、バーテンダーは3人か4人体制で従事する。
アルバイトがする役割のほとんどが掃除と皿洗いだ。飲食店の仕事のほとんどは皿洗いなので、ここは必須の役割だと知っているが、自分がそれのみを与えられているのは少し悔しい。皿洗いをしながらバーテンダーが作っているカクテルのレシピを覚える。忘れる前にノートに取る。

隙があれば、設備や食材の仕入れ先を聞く。それも当然ノートに取る。指摘されたこともノートに取る。全て書き取っているつもりだ。
週に1度しか入らないから慣れるのが遅い。まだフードメニューも覚えていないので早く覚えたいと思う。フードを作らせてもらえるようになれば次はレジ業務で、その次はお酒を作らせてもらえるようになるだろう。

カクテルのレシピは後でどうにでもなる。僕が欲しい知識は全ての商品・設備の買出し先・出所だ。それから「忙しさに慣れること」だ。あくまで基礎作りの範囲だが、知りたいことを覚えるまで1年はかかる見通しだ。

僕は近い将来、自分のバーを持つつもりだ。

僕の前に座ったお客様から、このウィスキーは何だと聞かれた。僕は事前にメモしていたことを思い出しながら言う。「これはグレンモーレンジ・トウサイルというシングルモルトです。マリス・オッター大麦が原材料で、50年前にクラフトビールの原材料として人気を博したものです。生産性が低いために使われなくなっていったのと80年代に他種との受粉によって一時は絶滅の危機に瀕しましたが、グレンモーレンジ社の技術者が種を守り続けた結果スペシャルエディションの第六弾として復刻・生産されています。生姜、蜂蜜の香り、大麦本来の甘さもあって美味しいですよ。いかがですか?」
ネットに書いていたことをそのまま言っただけの薄っぺらな説明だが、バーテンダーが言うとそれなりに説得力も増すのだろう。注文に至った。

聞いた客側もここまで説明されては頼まないわけにはいかないだろうな…と内心考えながら僕はオーダーを通す。

知りたいことを勉強し、全て覚えた頃の貯金額で開業をどのようにするか決めようと思う。
その頃には貯金もそれなりに貯まっているはずだ。8カ月で50万弱貯めた。遊びながらこれだから、まぁまぁ順調である。それから、いくら勉強が遅れても300万貯まった時は多少実力面に不安があっても開店させようと思う。開店してからでも修業は続けられるし、どうせやるなら早くしたい。焦る必要もないが、待つ必要だってない。

全ては立地条件次第だ。飲食店は立地が全てだと思う。立地が悪いために客が入っていない店を多々みてきた。いくら内容が良くてもそういうのを見ると勉強不足だと感じてしまう。
飲食店経営者の中には、内容内装にだけ気を使って立地を気にしていない人がいる。技術があって立地や内装に気を使わない人も見てきた。結果、技術があっても売り上げが思っているよりも上がらなくて店を畳んだ人がいる。
同じ轍を踏まないようにしなくてはならない。

どうにか昼間の仕事をやりつつバーも出来ないか考える。収入源は2つ以上持っておきたい。

僕は、這い上がらなければ。

アルバイトが終わり、一杯飲んで帰ろうと思った。

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