孤絶の嵐
自己中心主義で自己愛に溢れている、というのも少なからずブログを書いている僕には以下のような言い訳ができる。
自己中心主義であるから自分の利益ばかりを追求し、故に他人を不幸にするための暇を持たない。
自己愛が強いものはその過ぎた分を他者に回せることができる。そう言える。
自己愛が強いものはその過ぎた分を他者に回せることができる。そう言える。
もちろんこれは言い訳程度にしか使えず実際には程度問題も絡んでいるのでそれほど簡単に言い切れるものではない。しかし少なからずこう差し込める言葉と余裕は持っておくと今より自由になる。言葉の自由さがその人の自由さで、言葉の不自由さは残酷なまでにその人の愚かさを示す。
僕は普段、学び、学びが大事だと思っている。宗教的な学びというわけではない。善悪もつかないSNSが広がる、この社会の希薄な人間関係に対する自分自身への教育それを指して学びと言っている。
(女たちについての学びはここでは触れない)
学びの少ない人には他人が馬鹿に見えたり、抑えきれぬ憎しみの炎を抱いたり、まるで生きながら地獄に落ちていると思わせる何かを感じる。
盛の時期も過ぎたのに気が狂ったまま戻らない猫のように終わりが見えない。
まず憎しみを生む原因は孤絶感にある。それから悪徳の第一歩は、自分よりも他人にばかり関心を持つ心だ。それは一部の特別製を除きほとんど全ての人間が持っている。
当然僕も持っている。自分に語彙力の少ない愚かさも、信念のなさも感じている。孤絶感も忘れたことがない。というかそれがなければブログを書いていない。
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土曜日は朝八時に猛烈な吐き気と共に起きる。風邪が悪化したらしい。最近は忙しかったのもあって、食事も睡眠も疎かにしていた。
土曜日は朝八時に猛烈な吐き気と共に起きる。風邪が悪化したらしい。最近は忙しかったのもあって、食事も睡眠も疎かにしていた。
夕方まで食欲振るわず、何を飲んでもすぐに戻す。枯れてしまいそうだった。その日は約束事が2件入っていたが断りの連絡をする。たまにしかない休みを風邪なんかのために無駄にするのはもったいないが無理が祟ったのだ。断った相手に申し訳ないと思いつつ、あえて休日で良かったと思うようにする。
薬の効果あって夕方熱が下がっているうちに買い出しにいく。「必死剣 鳥刺し」という映画出演時の豊川悦司の如く、呻きながらライフの中をさまよう。卵がなかなか見つからず、意識が朦朧とする。
帰ってきて魘されながら見た夢についてエントリーしようとしたが全く集中できず。読んだり書いたり出来ないときが一番不憫だ。雑炊を食べて再び眠る。
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日曜の昼過ぎになってようやく軽く咳込む程度になった。熱も微熱程度である。何時間寝たのか考えたくない。
日曜の昼過ぎになってようやく軽く咳込む程度になった。熱も微熱程度である。何時間寝たのか考えたくない。
夜はバーの当番である。数人から無理せず休めと連絡がきた(本当に嬉しいことだ)が家にいると何もしないでテレビばかり見てしまいそうなので結局出勤した。
オープン前にニュースサイト(フリーの人間が集まって運営しているサイト等)をみていた。
そこには「テロに優しいのは日本くらい」だの「身代金交渉に応じる国は一つもない」だの書いていた。書きたいものを書けば良いとは思うがそれは私小説などの一部に許されることで(故に私小説は一部から嫌われるのだが)ジャーナリズムでそれは通用しないだろう。
そこには「テロに優しいのは日本くらい」だの「身代金交渉に応じる国は一つもない」だの書いていた。書きたいものを書けば良いとは思うがそれは私小説などの一部に許されることで(故に私小説は一部から嫌われるのだが)ジャーナリズムでそれは通用しないだろう。
主張したいことは山ほどあるだろうけど嘘はいけんよ、嘘は。
某新聞社のあるコラムにはこの度の人質事件を受け「護憲派の人間はテロリストに憲法を読んでね、とでも言うのだろうか」と書いていた。そういう言い方もあるのか!と孤独のグルメ風に関心してみたりもした。
憲法九条がなければ人質を救えた!というのもネットでみたが、まぁこういうのは極端だなぁと思う。九条を持っていない国(今回でいうなら米英)が人質を救えたとどこに書いてあったのだろう。人質事件と憲法改正を一つの議論に置きすぎだ。
どれも真剣に考えねばならぬ話を一つに纏めることで一体何が見えてくるというのだろう。さっきも書いたが、作家は書きたいものを書けば良い。読者は願ったものを読めばそれでも良い。しかし願いが現実とがかけ離れていればいるほど最後苦しむのはむしろそっちの方だろう。
言葉は人間だけが持つ「願い」である。その願いもまた言葉と体験相互の学びがあって使えるようになるものだ。書きたいものだけを書いていたらいつか都合の良い言葉だけを読みとる人も出てくる。これは言うまでもない。
当然、ブロガーである僕も書きたいものだけを書くという危うさを自覚している。僕は自身をきっと正しくないだろう、と思っているが実は腹の底で「自分は正義」と思っていた場合、僕は学びのない道を永遠歩いていくことになる。
きっと聞く耳持たぬ老人のように死ぬまでそれには気付かない。
最後には孤絶の中で世の中を怨み死んでゆく。
今日はここまで。
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