遊郭跡の幻覚②



九州地方が入梅を宣言し、まもなく関西も入梅するだろうと思われる夜のことである。

その日は異様なほど冷え込んだ。場所は大阪西成区の釜ヶ崎、とある長屋。今独り者となって生まれ故郷である西成に住むことにした。長屋の壁は非常に薄く、隣人の声がぼそぼそ聞こえてくる。風呂はついていない。屋根が風を受けてカタカタと音を立てている。窓を開け放ち眠っていたら朝方などは寒さに震えて目覚めることだろう。

少しだけ着込んで散歩した。
16年前に別れた、トキエとの思い出に耽りすぎたので。
当時覚えたであろう後悔がまだ反省しきれずにいるのか、それとも過去に傾倒することによる副作用か、気持ちの底にはまだ消化されずに残っている孤独が沈殿している。

これを紛らわす方法は同じ西成区にある飛田新地、遊郭跡を散歩する他知らない。花鳥、若尾、月、五山、150ほどある料亭の玄関には「お兄ちゃん、見てって や」「ほんまええ娘やから、お願いちょっと見てやって」「どうぞ」「見るだけ、見るだけ」「新しいええ娘やで」と、ぽん引きとはまた違う、いわゆるやり手 婆さんの声が聞こえる。
古く遊郭の雰囲気をそのまま伝えており売春防止法施行以後も変わりがないので、遊郭跡と呼ぶのは法律上の都合だろう。

今は料亭街「飛田料理組合」と称している。やり手婆さんの横には仲居が座っている。料亭の仲居と茶を飲み、自由恋愛のもと二人小さな部屋で裸になり触れ合い 楽しむというのがここでの遊び方。20分で一万四千円ほどが相場だろうか。仲居の年齢があがれば「30分大1枚で」という声も聞こえてくる。財布にはもう 少し少ないぐらいの金銭を忍ばせ、交渉時には「財布の中にはこれくらいしかないんや、これでどないかなるか」などと交渉する者もいる。

自分が盛んに遊んでいた頃にもよく足を運んだ。一人の客につき、やり手婆の手取りは三千円程度。上限を三千円にして値段交渉が行われる。
単純に好みの女を選ばなければ、思い立って引き返してもほとんど遅い。目当ての仲居がすぐ接待中になってしまう。ここではじっくり女を見てから入る店を選ぶ より、好みの女を見つけたらすぐに入店するのが後悔しないやり方だ。仲居にスリーサイズを聞くのはご法度である、男女で歩こうものなら塩をまかれるため止めておくのが吉である。部屋に案内されたら早く脱衣し時間を浪費しないこと、延長には行為を中断し追加金を払わねばならぬ等、まるで日本食やフランス料理を外食しているような明文化されない通文化がある。そういう事は誰に教わったわけでもなく自然に覚えた。
今の自分には性病を恐れるほどの余裕はない。ある日突然発作により没しても構わないといった心持でいる。統合失調症による幻覚、不安のために女を抱いても一時たりとも満たされることなどないという概念が染み込んでしまった。

再生の可能性低い自分が、将来に希望なく生きているのは苦しいことだ。

この病気を心から受け入れて、克服する日は来ないだろう。リスペリドンの服用をはじめてからしばらく経つが眠気、頭痛がひどく、立ちくらみがする。統合失調症は治る病気だという説明は当時の妻と共に受けた。ただ、あの頃の2人には困難を乗り越える余力がなかった。どうしようもなかったのだ。乗り越えたとして、その後どうなる?

冷たい風が音もなく空に吹きわたる。
散歩する手には焼酎を持っている。酔いながらこの飛田の雰囲気を味わうように歩くと懐かしい気持ちで心が安らいだ。料亭の名が黒字に書かれ白く光る看板。 赤い街灯が包む道路。仲居に向けられる強いライト。微笑む女に、無愛想な女。街灯よりもっと上、見上げれば飛田新地の夜を包んでいる静かな夜…ここで生まれ育ったという思い入がこの記憶遊びを助長させていた。

自分の育った家も飛田の敷地内だった。登録有形文化財でもある料亭・鯛よし百番のごくごく近くの高架下にあった。家が雨に濡れない代わりに、廃棄ガス のために家屋の色は黒ずんでいた。この百番という料亭は本来の意味での料亭である。子供の頃から違和感なくこの周辺で遊んでいたのだから、散歩するのに抵抗がないのは自然な話だと思われる。

古い話をするが、この近辺には南海電気鉄道の飛田駅があり、それは1980年の暮れに廃止となった。子供の時分廃止された線路―電車の行き来しない不思議な 線路―を眺めた記憶があるが、自分の生まれは1975年、干支は乙卯であるから、当時自分の年齢は5歳程度。記憶に対し疑いの余地はあるものの、勘違いと断定されるほど幼くはないつもりだ。
廃止決定後どれほどの期間を経て線路が剥がされたのか知らない。
飛田駅跡は現在、金網に囲われ南京錠が掛かった小さな耕作地になっているが、そうなる前はまだ平地に戻されたような状態で子供の遊び場となっていた。自分もそこで遊んだ記憶がある。

母子家庭のもと自分は育った。兄弟はない。母は朝から晩まで働いていた。そのため児童福祉施設「今池子供の家」にはよくお世話になった記憶がある。似たような環境の子供が10人程度集まると職員同行の下、その遊び場―飛田新地駅跡―でよくボールを蹴って遊んだ。

そのような時Mは常に自分と一緒だった。

Mはこの飛田駅跡から歩いて10秒程の所で住んでいた。自分の家からみてもごく近所だった。詳しい理由は聞いたことがないが、彼は両親とではなく叔父の家に預けられていた。Mは強い天然パーマがかかっていて、髪を切らず数ヶ月放置すればまるでアフロヘアーのように盛り上がっていた。仏頂面をしており、口数は多くなく、同じ子供ながら理解できない言動も多かったが比較的仲が良かった。彼の家に行ってビデオゲームをするのが日課だった。普段の食事は、Mの家の隣の定食屋でとった。二人だけで天王寺動物園に行った記憶もある。学校にはほとんど行かなかった。無断欠席して、教師が家庭訪問にて注意しようとしても家は常に留守で、たとえ注意がいったとしても子供の我々は怒られなかった。親の罪が子への罰となっていたのだ。それを棚にあげて怒る勇気など親はなかったのだろう。「学校、行きなさいよ」これ以上の注意は聞いたことがない。

要するに我々2人は家庭に問題を抱えた子供で、いつのまにか通っていた児童福祉施設「今池こどもの家」でビデオゲーム以外の遊びを知った。施設の閉門する時間まで其処で遊ぶのもよくある出来事だった。
もっとも、問題の有るなしを子供の我々では「それが問題だと分かる」力を持ち合わせていなかったと思われる。たとえ分かったとしても解決する術を知らない。気 付かないだけ救いがあったと言える。子供の順応力と言えば大人にとって都合の良いものだろう。なにより我々の家族だけが問題を抱えていたのではないというのが、家庭問題に気付かずに済んだ理由の一つにはなっているであろう。

西成区の釜ヶ崎を中心に、その周辺で子供を育てる家庭には育てる環境それ自体が問題だと言い得た。

我々はよく飛田大門跡のすぐ傍にある銭湯に行った。時刻は夜の9時頃。いつもそれが2人の時間の最後だった。銭湯から出るとお互いそこで別れるのがいつしか暗黙のルールとなっていた。

一度だけ、銭湯に行った後家に帰らなかったことがある。何故だか家に帰りたくない日があった。Mもそんな日だったのか、またはそんな自分の様子を察してくれたのか、別れを言わずに飛田新地中央に向けて無言で歩き始めたことがあった。

大門跡を背に向けて真っ直ぐに歩くと、飛田新地を仕切るように出来た壁があり、それに対し急な石階段がある。階段が設置される前は遊女の脱走を防ぐための高い壁だったと思われる。我々はその無理に造られた感のある急な階段を上り、飛田新地を見渡した。
飛田の活気が納まるのは夜の12時迄。見下ろす飛田の光景は、街灯が眩しいほど赤く輝いており子供ながらに綺麗に映った。Mは何も言わない。自分も何も言わなかった。
ただ我々は家に帰りたくなかったのかも知れないし、二人でいることが好きだっただけかも知れない。

孤独と孤独は引かれ合う万有引力のように、我々の心情にもまた引き合う力があったのだろう。

現在では勾配の強かった石階段は構造ごと作り変えられて、綺麗な階段になっている。いつ頃作り変えられたか知らない。

もう少しMについて述べたい気持ちになった。Mの叔父はヤクザだった。髪をオールバックにし、夜は家にいなかった。きっと賭博場の人間だったのだろう。部下の近状報告を聞く顔、言葉使い、家では上下ジャージである等、大阪の下町生粋のヤクザ、その風俗を、そのまま崩さず残していた。

西成には現在でもヤクザの事務所が多いが、それはもうあまりに周知の事実でありそう驚かれない。
その叔父とは何度も会ったがあまり多くの口を聞いたことがない。きっと子供と話すのが得意でなかったのだろう。それとも口数が少ないのがMと似ているところだったのだろうか。Mと自分を見ると小遣いをくれた。
外で遊んで来いという意味だった。

叔父さんは、我々が中学校を卒業する頃亡くなった。Mと自分は違う高校へ進学したのでそれきり会わない。父親に引き取られたのだと噂で知った。
今もMが住んでいた家はそのままになっており、硬く扉を閉ざしたまま窓の向こうは暗闇で満たされている。

生まれ育った街を、それも数え切れぬほど歩いた飛田新地を、あえて今日まで訪れたことがないかのように彷徨ってみた。

こういう仕方で自分の持つ孤独を慰めているのだ。

自分はこの世界に何を求めているのだろう。
何かが欲しいわけではない。けれど、何かが欠けているから孤独な気持ちで生きている。あらゆる物が自分の前から消え去った。

友達はいつの間にか消え去った。親もいつしか死んでしまった。恋人達とは騙し合いを繰り返したあげく別れた。最後にやっと愛する女と結ばれたと思えば統合失調症になった。
幻覚ばかりの毎日がやってきて、うちに離婚した。治ると言われた病気だが、その時既にお互い消耗しきっていた。
嫁が「子供も出来なかったし、まだ取り返しつくかな」と小さな声で言った。
おれは「そうだ」と小さな声で言った。

幸せになれとは最後まで言えなかった。難病を乗り越えられる程の絆がなかったのかもしれないが、今はもう分からない。離婚してから暫くは連絡があったが、それが苦痛に思って取り合わないようにしているうちに、向こうからの連絡もなくなった。



今は、孤独を避けるために呑む酒だけが支えになっている。睡眠薬も飲むが、酒も呑んでから寝る。アル中にでもなって幻覚ばかり見て死んでしまっても誰が泣くのだろう。

夜は一層寒くなり、孤独をさらに強める働きをした。

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