変われないままで④(了)



千恵子との性交は楽しい時間だった。
行為を終えて、ベッドの中で千恵子は頭を俺の胸に埋めるようにして寝転がった。
「すごく、気持ちよかった」と千恵子は言い俺は「俺も気持ちよかった」と頭を撫でながら言った。

千恵子はそのまま眠りに落ちてしまった。小さく漏れる寝息を腕で感じながら俺も寝ようと思った。換気扇の動作音が聞こえる。

突然、ドアを強くたたく音が部屋中に響いた。
激しく扉を叩きながら「千恵子!千恵子!」と呼ぶ声がする。声の主が誰かは誰にでも予測できた。

「そこにいるのは分かっているんだ。出て来い!」と怒鳴り声が激しさを増した。

ハッと目覚めた千恵子が「ごめんなさい。賢治さん、本当にごめんなさい」と、手で口を押さえながら言った。

「良いんだよ。千恵子。まずは服を着よう。長くなりそうだ」

服を着たのを見ると千恵子の目を見つめながら言った。
「大丈夫だよ」
俺は男だ。汚名を着る準備ならいつだって出来ている。

扉を開けた。男の血がのぼっているようだった。俺を確認するなり殴りかかってきた。想定していたので避けることも出来たかもしれないが、避けなかった。代わりに歯を食いしばった。顔面を叩かれ、視界が揺れた。音も掻き消された。
ぼんやり男の顔が見えた。俺と同じくらいの背丈だった。

「このションベン野郎!」唾を吐き散らしながら男は怒鳴った。
「てめぇは何てことしてくれたんだ!」

千恵子は動揺して何も出来なかった。普段温厚そうな旦那がこれほど怒りを表すことなど今までなかったのだろう。
「何か言いやがれ!」続いて殴りかかろうとしたから、千恵子は俺と旦那の間に体を入れて止めた。そして旦那にしがみついた。

千恵子の体を剥がそうとしながら「俺はこんな、理性もない奴が大嫌いなんだ!」と怒鳴った。

「何か言い訳があるか!この野郎!お前もお前だ!千恵子も何とか言え!」怒鳴られて千恵子はビクッと萎縮した。彼女は恐れていた。

「言い訳なんてない」と俺は言った。

「あなた、ごめんなさい!今からあなたと一緒に帰るから、ここは許して。あなたも殴って気が晴れたでしょう。まだ晴れないようなら私を殴って。ちゃんと罰は受けますから」
千恵子の旦那は少々困惑した表情を見せ、暫く黙った後「帰るぞ」と言った。

それから身支度は全員無口だった。千恵子は部屋を出る際に小さな声で「ごめんなさい」と言った。

部屋は誰もいなくなって静かになった。鼻血が出ていた。ティッシュを鼻に詰めてベッドに仰向けになって倒れた。天井を見つめる。
元々トラブルを招く性格の俺だ。生き方なんてとうの昔から間違えている。いちいち驚いていたら身が持たない。
今起こったことより別のことを考えようと思った。今起こったことは、下らなかった。

千恵子は良い女だった。肉体関係だけのつもりが、時には本当の恋を覚えたこともあったかもしれない。いや、ただの情だろう…

俺は40代半ばを迎え、未だに愛について何も理解していない自分が恐ろしく感じた。

10代、20代、30代まで俺は一度も恋をしたことがない。恋愛を遊びの一環にしていた時点で俺は間違えていた。

特定の人だけを生涯守りたいとか、好きでいたいとか思った日なんてない。ただ、楽しめたらそれでいいと思っていた。
天井を眺めたまましばらく何も考えれずにいた。

鼻からティッシュを抜いた。先端は赤く染まっていたがもう血は止まっていた。触れなければ痛みもない。再び天井を見つめた。


俺が過去に抱いた女達よ。
一度セックスしたきり会ってない女達よ。お互い、一度でも交わればその後二度と会えないと分かっていながら、それでも俺たちは求めあった。そこにあったのは本当に性欲だけか?俺は、いつも性交の後、互いに永遠の愛を覚えるんじゃないかと願っていたんだ。たったそれだけの望みが何故満たされない。

俺が過去に抱いた女達よ。
俺はお前達の体だけが目当てだったんじゃない。嘘じゃない。抱きながら、最後の女がお前でも良い、そう心から思っていたんだ。けれどやがてお前達は俺の前から去ってしまった。
お前達は「さよなら」よりさり気ない言葉で別れを告げて、それきりもう俺の前に現れはしないんだ。


俺は嫁に電話して、あることを伝えようと思った。携帯電話を少し眺めた後に意を決して電話した。

あかりはすぐに電話に出た。
「もしもし、どうしたの?」
「あかり、聞いてくれるか。伝えたいことがあるんだ。本当は会って話したいことだけど今言わなきゃいけない気がして」

「あなた、次に家に帰ってきたら話し合いたいことが私にもあったの。そうよ。あなたが感付いているようなことよ」

「離婚の話だね。良いんだよ、あかり、今話そう。俺達はお互い年を取った。お互いにちゃんとした結婚生活を送ってきたんだ。別に今更離婚したって誰も気にならないさ」

「私ね、あなたも知っている裕子さんだけど、あの人と一緒になるわ」

「そうか。裕子さんか。いいな。すごく良い人だと思う。彼女があかりの運命の人なんだね」

「運命の人…そう、そうよ」
声に出して初めて実感するようにあかりは沈黙を続けた。

「少し変な言い回しをするけれど、いま思い返すと、俺達は大人になっても巣から飛び立てない鳥のようだったな。俺はさ、嬉しかったんだ。巣から飛び立てない鳥が俺の他にもいるのが。ありがとう、あかり。君はそろそろ巣立つんだ。俺だって君がいなくなったら飛ばなくちゃ行けない。大丈夫だよ。一人でやっていける自信が最近になってやっとできた。君がいなくなったときのことを想定して過ごした時は何度もあったし、不意な出来事じゃない。ずっと準備していた」

「賢治さん。わたし、ずっと長い間迷惑をかけてきてごめんなさい」
「それは言いっこなしだよ。仮面夫婦でも、夫婦として一緒に生きてきたんだ。体の関係はなくとも、君がそろそろ本気で誰かを愛している気がしていた。僕の部屋を開けて見てごらん。ダンボール箱に荷物を纏めてある。その荷物だけあれば俺は不便しない。それを俺の別宅へ送ってくれ」

「ごめんなさい」あかりは涙の混じった声でそう言った。
「いいんだ。少し泣けばいい。泣き止んだらまた話そう。俺は明日の昼過ぎにはそっちに帰るよ」

あかりは「ごめんなさい」と言い電話をきった。

女達よ、謝るな。
君達は謝っちゃいけない。
悪いのはいつも俺だった。責任を持てない俺だったんだ。謝る必要がある奴はいつだって、責任も持てないような奴なんだ。

涙で天井が滲んだ。何か少しでも喋ると止まらなくなる気がしたから、静かに息を吸った。苦しくなったが堪える。泣きたい時に泣けば癒される、そんな時代はもう過ぎたはずだ。
けれども抑えきれない涙が一粒、二粒と流れてくる。俺はあかりが飛び去った後、ずっと巣から出ないだろう。だけど引き止めておくより、俺も飛ぶから君は先に飛べと言いたかった。

彼女は巣から飛び立っていく。引き止めちゃいけない。俺は変われないままで生きていくのだ。

過去へ過ぎていった女達よ、せめて、最後くらいはありがとうと言ってくれ。

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