砂時計のように流れゆく感情を「自分だけの日本語」に翻訳して、ブログは今日も悲しい慰安である
いつの日からだろうか。言えることが少なくなり、聞きたくないこともたくさん聞こえるようになった。ナポリタンを食べながら今日もそんなことを思っていた。
もしぼくが何も知らなかったら、何も考えなかったら、何も学ばなかったら、自分だけは傷つかずに生きてこれたかもしれない。
綺麗事だけ言ってても埒が明かないこの人生に、僅かでも良いから前を向く力が欲しい。
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数ヶ月前、とある女に「あなたが何を考えているのか全く分からない。正直、馬鹿だと思う時もあれば賢いと思う時もあるの」と言われた。その女はぼくのブログを熱心に読んでいるようだった。
ぼくは言うに事欠いて「君が感じるように、ぼくは馬鹿で賢いんじゃないかな」と返事した。帰り道、それ以上にうまい返事はなかったような気がした。一方では、結局何も伝わらなかったんじゃないかという気がしてやまなかった。
実際、ぼくのブログを読んでいるなら、少しは何を考えているか分かれよ、とさえ思っていたのである。
これまでに"人は理解しあえない"のようなことを、何十件もエントリーしてきたはずだ。ぼくはブログを通じて体現してしまった。
この事象を、このディスコミュニケーションを、ぼくは何と呼称すれば良いのだろうか。言わなければ伝わらない、言っても伝わらない、書いても伝わらない。
各々が持っている内向的な世界のズレを淋しく思う。
ぼくはその女と何度も会って話したが迂闊にも近付きすぎ、一度寝て、以来会っていない。例に漏れず何度も繰り返してきた出会いと別れの一つとなった。
「男女間に友情はあるのかしら」なんて会話などなかったことにして、習慣の中でぼくはその女を忘れていくだろうし、女もぼくを忘れる道を歩むだろう。
どこにでも落ちている人間模様に対して今更「人と人は理解しあえない」と書いても意味はない。それは残酷なまでに事実だからだ。同時にそれが人間の営みというものだ。生きていくには触れては発生する孤独と上手くやっていくしかない。
アノミー的自殺が蔓延るほど秩序もない荒野の自由、その中で個人が幸福を得ることは難しい。手に入れるのが不可能だと思うなら、もう友や恋人を探すのは止めてアニメや漫画、インターネットに時間を捧げ、テレビの中の俳優やアイドル、ミュージシャン、その他一切返事がないものを愛するしかない。
ぼくは違うはずだ。
ぼくは - 何だ?
ぼくはどうする?
このまま、他人に理解を求めて生きていくのか?
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