水槽の中

夏目漱石が書いた硝子戸の中という小説がある。漱石の老いた精神が一枚の硝子戸から世間を見渡した様子を、39回に渡って朝日新聞へ掲載したものだそうだ。
ぼくはこれが好きだ。対人関係で落ち込むようなことがあれば読む。これを読めば解決するのかと言えばそんなこと全くないんだけどつい読んでしまう。読んで共感して、傷を慰める道具にしている。

硝子戸の中は1915年(大正4年)に書かれたものだ。99年が経っても漱石先生の悩みは現代人であるぼくの心を打つ。2014年に生きている28歳の男が未だにこれで慰められているのをネットのネの文字さえなかった時代の漱石先生は予想していただろうか。

今日、ブログのカテゴリー「随筆」を「水槽の中」という名称に変更した。前々から、テーマがないようなエントリもあれば日記のようなやつもあり、あれれ?これ随筆ではないな?とは思っていた。

ぼくはコンビニのレジで並びながらこの「水槽の中」を来年2015年が終わるまでに硝子戸の中と同じ39回連載させて、夏目先生及び硝子戸の中という作品の100年を祝うものとしたいと思った。会計が終わる頃には今までただ何となく書いていた文章が不意に目的を持った気がした。とは言う物のこのカテゴリー「水槽の中」は今後も変わらず今まで通りのものを書いていく予定で、特に目新しい内容の変化はないかと思われる。

ただ実を言うと最近随筆難に陥っていたのだ。もう二ヶ月近く書けなかった。20作ほど下書きしたがどれにもエンドマークが付けられないでいた。今年に入って書いた中編「喪失の友」や短編「4月の光」がぼくにそれを許さなかった。こう書けばかっこよく聞こえるが、実際は、ぼくは何かを成し遂げた気になっていたのだ。
すーっと、こう、わたしは悟りを開きました的な…。なんだかすみません。

○
それはそうと実際の会話でもぼくはよく世間を小さい水槽に例えている。これは硝子戸の中を意識して話したことなどただの一度もない。硝子戸という現実にあるものから正反対にある電子の世界・ネットの存在から表現を得ていた。

壁に貼られていた掲示板がネットのSNSになって、携帯電話がスマートフォンになり、対人関係の希薄化が更に進んだ。ネットでも携帯でもなく、会って話すことが大事だ、会っている時間を大事にしよう、と思う人が急激に減った。利便性を計って開発されたものが返って外に出なければ人と会えないんだという常識を変えてしまった。それの悪い点は、別にそのこと自体は悪いことでも何でもないという所にある。

現代ではネットさえあればコミュニケートできると信じている人が多い。ぼくとしては、よくこんなもん信じられるな程度に思っているが、今日ネットは個人経営店はおろか企業まで倒産に追い込める力を持っている。つい数ヶ月前も一人の少女がオンラインゲーム上でしか会ったことがない人間から口撃され、悩みを誰にも打ち明けることができず自殺した。

漱石先生ですらこんな事態想像できなかっただろう。

優しさ、暖かさなんて伝わらないほど熱を奪ってしまう薄く冷たい現実。自分は大事にされているという実感を持つのが難しいこの社会。人と人との繋がりを感じられないほど酸素の少ない、小さな小さな水槽の中の人間関係。

これまでも、これからもあるであろう組織内での派閥争い、LINEのようなものを利用し水面下で繰り出される"親友同士"の陰口は更に孤独の影を強めていくことだろう。

この水槽は、液晶画面にも似ている。

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