ムードインディゴ考

ムードインディゴという映画を観た。大阪でディレクターズカット版を上映しているのは唯一BIGステップにある映画館だ、と友人から聞いたので、どうせ観るならそれが良いと思ってそこまで足を運んだ。

フランス映画なのでハッピーエンドにはならないことは何となく分かっていたし、そもそも物語より映像美を堪能するのがフランス映画だと聞いたことがある。

フランス映画を観たことある人は、何十秒も音もない映像をぼんやり観させられて退屈を感じたこともあるだろう。ぼくはフランス映画に詳しくないが、あれはカメラワークを感動する時間でもあるのだそうだ。

ムードインディゴの話に戻すが、この映画については予告編しか観ていない。それ以外の前情報は一切ない。もちろん原作だって読んでいない。

鑑賞後、ぼくがした解釈が世間的に合っているのか知りたくてレビューサイトを見て回ったが同じ感想を抱いた人がいないので、これはぼくの解釈だとしてブログにすることにした。ディレクターズカット版(131分)を観て思ったことなのでインターナショナル版(95分)を観られた方とは感想も異なるかと思う。

以下、ぼくの勝手な考察である。
※ネタバレなので映画を観る予定の人は読まないでほしいです。観る予定のない方はどうぞ※

広告には、ムードインディゴは二人の愛の美しさを描いた作品だとあったがこれは貧困層で生きる若者の話である。クロエという理想の女は存在しない。

構造としてこの物語は、過去を遡りながら理想の自分を想像し、理想の女と恋に落ちる夢(という名の現実逃避)をネズミがみているのだ。

ネズミが最後、恋愛が描かれた紙を手にして家から出て行くがそれは主人公が現実逃避のために描いたものである。

では何故このような結論に至ったかという話をはじめる。


違和感を覚えたのは、上映まもなくして最高のエンディング、つまりクロエと素晴らしい結婚式をあげるというクライマックスが用意されていたことにあった。このまま物語が進めば悲惨な結末を迎えるしかない。

舞台はパリであるのにユーロではなく架空の通貨であることから、この世界のことではないだろうと思いながら続きを観た。

通貨の名称は忘れたのでここでは夢通貨、と称することにする。主人公は夢が始まった当初10万夢通貨を持っていた。それが現実逃避という名の夢が始まった時に所有している夢の量であった。

使い切れば現実に戻される。金のない現実に戻されるのだ。まさに色のない現実だ。

後半のモノクロ世界との対比は強烈で、物語序盤はまさに美しい夢のように色鮮やかである。特にクロエとの出会いは運命的だ。クロエは賢く美しい。主人公はクロエと出会ってすぐに「君は××という作曲家に編曲されたの?」のようなことから会話を切り出す。

理想の女・クロエはある素晴らしい楽曲の曲名だった。(と思うが定かではない)

美しい音楽=目に見えない
これがクロエがクロエ足り得る理由になるかと思われる。

現実逃避という夢の「働く必要のない」ほど裕福な主人公と、これ以上にないほど仲の良い友達。

現実では仕事もなければ金もない、恋人も趣味もない空っぽの男だった。彼の求める物は女神であった。

そして夢の中で彼らは幸せであった。カクテルピアノを作れるほど秀才の主人公を筆頭に(作り物であると明白な足でする)幸せそうなダンス。スリリングで水の中を泳ぐような結婚式。食事は食器ごと捨てるほどある。

更にここで注目してほしいのはタイプライター労働集団だ。彼らはただの進行役ではない。彼らが書くことは実行される、という夢と現実の狭間で生きる脚本家達なのだ。

クロエとの再会の場面では主人公が「主人公の好きな街角」で数十分後クロエと出会う、とあった。
ここで疑問を覚えてほしい。「主人公は『自分の好きな街角ですら、自分では決められない男』であったのだ。」
こんな男をどこの女が好きになるのかと思ったがそこは夢の世界。主人公はタイプライター労働集団や諜報員をフル稼働して感動の出会いを果たす。

思い出してほしい。彼は面接を受けても、椅子の座り方も知らない無能な人間である。まともに挨拶すら出来ないのを椅子のせいにする。そして椅子を直すという仕事すらできない。笑われて当然の人間だ。

後半に登場する銃を育てるバイトは、現実にはないと言ってもいいほど現実離れした仕事しか主人公が出来ないことを表現している。そしてそれすら出来なかった主人公はどうしようもなく無能な男だ。

物語中盤からは世界はセピア色になる。夢通貨を派手に使い、そろそろ夢から現実へと引き戻されていく時だ。セピアからモノクロの世界に近づけば近づくほど現実へ近づいていく。

「刺すような光が実際に刺してくる」という夢あるコメディのような描写であるが実際は、逆の意志を持ったリアル、つまり目覚めの光である。朝が来たからもう起きなさいよ、という太陽のメッセージだ。
主人公は最愛の女を抱くという幸福を最後に夢から現実へと醒めていく。


余談1
主人公がクロエと出会う会場で人種を気にする描写があったかと思う。知っての通りパリは貧富の差が激しい。どこの世界でも貧困層の若者は人種差別に囚われがちである。

余談2
何度か呼び鈴を叩き潰すシーンがあるがあれは目覚ましの比喩である。呼び鈴をすぐに叩き壊さなければ夢から覚めてしまうから、夢の世界の住人は呼び鈴を叩き壊していたのだ。


モノクロの世界になってから、一度しか主人公とクロエは同じ画面に入らない。そして、そのたった一度は、クロエが死んで抱き上げる時だけだ。
抱き上げた時に不自然さを覚えなかったか?その不自然さの正体は、いとも簡単に死体を持ち上げたところにある。つまり実在していないので軽かったのだ。抱き上げた瞬間クロエは透明になる。元々存在してないことを現し、夢がもう終わることを表現しているのである。

最初に述べた通り、クロエは存在しないので棺桶に入っている人間も当然クロエではない。
では誰か?読書家の友人である。

読書家の友人には黒人の恋人がいた。彼には読書と恋人だけが全てだった。その恋人が主人公と浮気をする。それを知ったがために読書家は自殺する。

自殺する原因は自分ではない、と信じたいために主人公は現実逃避をはじめた。まともな葬儀すら出せない自分から逃げだしたいのだ。

主人公は夢の中で「読書家が愛する作家」を殺すことにした。自殺の理由を他人に置き換えているのだ。そして作家を殺したのは…浮気したことを読書家にバラしたのは、あの黒人の恋人だ。

主人公は、自殺の原因は彼女にあると思いたい。

途中、主人公はまもなく死に行く人々に死亡日時を通知して回るバイトをしているが、それは自分が死神であることの暗喩であったのだ。

夢が十分にある時に、読書家へ2万5千を渡したのはある種の贖罪である。
【贖罪】
(1)金品を出して刑罰をまぬがれること。贖刑(しょっけい)。
(2)犠牲や代償をささげることによって罪過をつぐなうこと。

物語は読書家を埋葬したところで終わりを告げる。

棺桶を運んでいるあいだ少ない友である料理人が同行する。彼を夢の中で料理人として、また親友として雇っていたのは彼だけは主人公を見放さずにいてくれた友だったからであろう。


銃をぶっ放したいほど八つ当たりしたその先には、静かに浮かぶ睡蓮の花があった。


以上のことからぼくはこの映画を構造主義的技法をふんだんに用いた文学性の高い作品であったという感想を持つ。ぼくの思想はこの映画のために悲しまない。あまりにどうしようもない人生とその強烈な対比が美しくないわけがない。

短いようだがこれにて考察を終了したい。

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