ベルトコンベアもう俺を降ろしてくれ
ラブホテルの安っぽいベッドで芝居じみたセックスを終えた後、名前の知らない女の寝息を背中に感じる。情事のあとで感じる虚構に処方箋はない。
薄明りの部屋、手探りで煙草とジッポを見つけ口に運ぶ。高音が響く。煙草の先が赤く光る。
俺たちはもう会わないだろう…そんな予感が肺を満たす。そしてつい今しがた終えた情事に何か深い意味を与えるかのように煙を吐いた。
自分にとって大事なものは何だっただろう。
こんな馬鹿げたこと考えるのはこれで何度目だ?
俺の大事なもの。
おもちゃを埋めた犬がそれをどこに埋めたのか分からなくなるように、俺もかけがえのなかったはずのそれを何処に埋めたか忘れた。
時間が止まればいいのにと願うほどのセックスを最後にしたのはいつだろうか。思い出そうとしても今は無理だ。空気清浄器のフィルターが反応して音を立て始めた。
酔っている時だけ生きた心地がする。
性行為に浸っている時だけ生きた心地がする。
「なんて不味い煙草だ」
当然ながら女からは返事はない。馬鹿なことを言いたかっただけだ。
空白を埋めてくれる人と出会うために毎晩街をさまよっている。
俺は食べられそうな全てを食べて抱ける人は抱けるだけ抱いた。
ある夜ある女と果てた後、女は「ありがとう。じゃあ体洗い流してくるからそろそろ出よっか。近くで彼氏を待たせているの」と言った。浴室に向かう女の後ろ姿を見た時、ようやく俺の目は覚めた。
自分がこれまで無心で求めてきた恋愛やセックスなんて他者にとってはただの暇つぶしだったのだ。
考えてみれば当然のことだ。裸で求め合ったって別に愛し合っている証明にはならない。それをなぜ今まで考えずにいたのだろう。いや、俺は知っていた。気付きたくなかっただけだ。
愛が何かを知らないが愛は確かにあるだろう。俺の人生の外側に。
○
外の光が入らぬよう設計されたホテルでも、まるで何かのお告げのような朝日が差し込んできて俺たちを起こす。
身支度を終えた女が次はいつ会えるかしらと聞いてきた。
連絡先なんて交換していない。俺の性格を試しているのだろうか。この女とまた寝るなんてもうごめんだ。だから俺は会いたくなったら呼んでくれと答えた。女はそれ以上何も言わなかった。
お互いこうなることくらい承知の上のはずだ。
自動精算機の音声を聞くまで俺たち二人はまるで恋人のようだった。
エントランスの外側で強烈に輝く冬の光が俺たちを別人に帰していく。
女は振り返らずに雑踏へ消えていった。
○
別れてからその日は何の予定もないことに気付いた。ホテルから出たその足で映画館に行った。話題になっている映画とそうでもないものの二本観た。どちらも調子がズレたまま進むジャズセッションのようだった。あるいはズレていたのは俺のほうかも知れない。
家に帰ってシャワーを浴びた。買っておいた弁当を温めて食べた。時計は午後7時を指していた。まだ夜は長い。やることがない人間にとって夜は苦痛だ。
俺は洗濯機を回すことにした。衣服から昨日抱いた女の香水の匂いがした。そばにいた時は意識しなかったが、さすがに女の武器と言われるだけあって不思議な作用をするものだ。
洗濯機の音を聞きながら眼の前の何もない空間をじっと見つめる。
誰かと話したい。けれど誰とも会いたくない。酒を飲みたい。けれど誰とも飲みたくない。こんな状態の俺に何か有意義なことが出来るわけがない。
○
別の日、また夜。世話焼きの知人が鍋をするから家に来いと言う。
俺は常識人のふりをして手土産を用意し遅刻せずに行った。金に余裕さえあれば俺はこういったことが出来る男なのだ。
鍋から出た蒸気で部屋の湿度が上がっていく。酒を勧めあいながら会話が進んでいく。延々と続けられる日常会話に嫌気が刺し、平坦な道をひたすら歩いている気分に陥った時、男の子が突然「面白くない」と言った。飲み仲間の一人が連れてきた今年五歳になる男の子だった。
今や母となった飲み仲間が「この子は自分が会話の中心になれないとすぐ泣くのよ」と言った。それは自然なことだと俺は言い、暫く席を離れて子供のくだらない遊びに付き合うことした。
子供にとって大人たちの会話は面白くない。俺も子供の時分、大人たちの会話が耳にも心にも遠く、なにひとつ楽しくなかったのを覚えている。
お付き合いのつもりで始めた遊びもすぐに飽きてしまった。また平坦な会話に戻って酒を飲むことにした。
面白くないことが当たり前になった今、酒を飲む以外に何が出来る?
解決のない自問自答がいつしか俺の癖となっていた。
○
強い酒を飲んで悪夢にうなされる。それが日常。
熱めに設定したシャワーで汗を流しながら飽きもせず生きるとは何か、死とは何か、喜びとは何か、悲しみとは何か考えていた。
目に見えないベルトコンベアに乗せられている気がする。何か得て何かを失いながら、さっき見た風景と似たような場所へ次から次へと流されていく。いつも通りの快楽を得て、どこかで味わった痛みに耐え、俺自身は変わらない。
女と会ったのは午後十時だった。もはや前置きなしで身体だけ求め合う。誰とでも寝る女でもその場限りは誠実に振る舞っているように見える。まるで俺にしか見せない顔があるかのようだ。
俺は女の嘘を信じる。嘘っぱちの身体で抱きしめあって、幻想から出られないまま人生が過ぎていく。
人は綺麗に生きられないが、折り合いをつけて生きるものだ。俺の折り合いはどこにあるのか。虚無を感じながら飲む酒も、喜びの無いセックスも、いつか報われる日が来るのだろうか。
夢をみた。俺は透明な駅に立って、どこか自分の知らない場所へ連れて行ってくれる電車をひたすら待っていた。