幻想の城

前回のエントリーから今回のエントリーまで何か意図があって書いていなかったわけではない。単純に、ネットにアクセスする術がなかっただけなのだ。

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前回の「自分だけ救われようともがく人たちの中で」というエントリーと前々回「命を燃やす」は連作になっている。何か起こればすぐに否定的になる自分を俯瞰することで、せめてブログの上だけでも冷静になろうという実験だ。

ただこういう試行錯誤が今後実生活に生かされるのかどうかは疑わしい。いくらビデオ・ゲームが得意でもその技が現実生活で活かされるケースなどほぼ皆無であるように、ブロガーはブログ上でしか自分を生きられないものだ。

ここでどれだけ自分を正当化しても、世間と自分とのズレは修正されない。根底が正されないものだから何を書いても矛盾し何を結論付けても覆る。

内向的な世界で矛盾が反復され続けば、それは到底自分では制御できない破滅的な行動となって表に現れる。その様子を人は心の傷だとか心の闇だとか言う。

僕は、正直を書くならそういうものから目を逸らして生きていたいと思っている。
明日の天気のことくらいしか気にならない人になりたい。嫌味を言うようだけどそういう人は自意識がないなとは思うが健全だとも思う。

幻想の中で生きているより、現実を生きているほうが本統だと思う。

実際、現実から目を逸らすのは不可能であるしそれから逃げたければ宗教に入るか狂うしかない。狂いたいと思えるほどマトモなら、どちらも簡単にうまくいく話じゃない。

自意識というものが芽生えている限り内向的な問題からも逃れられない。それに、どうやらこの社会はそういう人が傷付くように出来ているみたいだ。

たとえ認知行動療法やEMDRで夜の底へ沈むような…また底を感じられないようなこの感覚…を除去できたとしても言葉を覚える以前に受けた傷や、受け入れがたい体験からくる(ナラティブ化できない)苦しみは生涯取り除けないだろうし、原体験に至った過去までは変えられない。

僕が書こうとしているのは表現不可能に思われるその辺りの部分で、指がキーボードを叩いた時にはその全てを見失っている感がある。

そういうわけで、これも再三書いてきたがブログは誰の為でもなく自分のために書いている、自慰行為であり同時に自傷行為なのだ。

書いて読んで、自分を分析できればもう少し生きやすくなるはずなのに。

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先日、と言ってもけっこう前の話になるが本屋をぶらり歩いていると「生まれた場所で咲きなさい」というタイトルの本が並べられていた。
僕は「それはあんまりじゃないかなぁ」と思った。

過ごしやすい場所を探す権利は誰にでもあるし自分を丸ごと変えたければ住む場所・仕事を変えるしかないじゃないかと思う。

どうせ人生は「たら・れば」の繰り返しだ。これ以上に説明は必要あるまい。


どこまで生きても、自分以外の人生を歩めない自分がいるだけなのだ。

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