恋人に毛布を

大きな風が吹き渡る音が聞こえた。
木々が手を振り見送る。沈黙が再訪する。

深夜3時。浅い眠りから目覚めて恋人が隣にいないのに気付く。寝室を出て階段へ向かう。月明かりしか差し込まない廊下は薄ら怖い。電気をつけないまま階段を下りた。
トイレの近くにあるアトリエ部屋に目をやる。扉は締め切られているが隙間から光が漏れていた。
また恋人が創作に耽っているのだろうと思った。

以前恋人は澄んだ夜しか描けないと言った。私たちは澄んだ夜を求めてここへ越してきた。丘のうえにある我が家は夜中、物音ひとつ立たない。時々車が走る音が聞こえる程度だ。

アトリエから漏れた光を見つめたまま、動けずぼんやり立っていた。
やはり物音ひとつない。

また床で寝ているのかもしれない。いつもそれが心配だ。扉を開けようかと思ったが、いつも同じように躊躇してしまう。恋人が夢中になっているものを邪魔したくない。

絵を描いている恋人は、自分の中にいる悪魔と闘っているように見える。自分の中の不満と対峙している気がする。絵画の世界に逃げているようにも見える。

絵が描けない時はガレージで彫刻に挑んでみたり、裏山で写真を撮り歩いたりしている。どこにも発表する気がない分、楽なのだそうだ。

沈黙を10秒数える。長い、長い10秒だ。やはり物音が無いのでドアノブに手を掛けた。いつもより冷たく感じるドアノブのせいで右に回せば開くのか、左に回せば開くのか分からない。

「開けるよ」
声はしじまに消えていった。

暗闇に目を慣らしていたせいだ、飛び込んでくる蛍光灯の光が眩しい。次に拡がった光景は100号ほどの大きなキャンバスに、迷いの広がる油絵だった。その足元で、恋人は身を丸くして倒れていた。

私は少し足早に近づいた。恋人の顔を覗き見る。疲れきって眠ってしまったのだろう。静かに寝息を立てている。苦しんでいる様子はない。

蛍光灯の激しい光を肌で感じながら辺りを見渡す。久しぶりに見た景色だ。私は普段ここへは入らないのだ。観葉植物が以前より増えている気がする。真っ白な壁紙が少し汚れている。

私は恋人の顔を見て少しだけ安堵した後、恋人を起こせば良いのか、毛布を掛けてそのままにすれば良いのか考えた。起こせばまた創作活動に戻るかもしれない。けれど、私は一緒に二階へ行き、隣で眠って欲しいと思う。どちらが良いことなのかはっかり分からない。

なるべく言わないようにしているけれど、愛しい人とはなるべく一緒に眠りたい。

私だけを愛する人は面白くないと知っているはずなのに、どうして恋人にはそれを求めてしまうのだろう。

恋人の寝顔を見る。頭を撫でる。床に膝をついてキスをする。
目覚めて「会いたかったよ」と言ってくれたらな、なんて想像する。

諦めて私は立つ。そっと部屋から出て、寝室から毛布を持ってくる。恋人の肩から、足元が出ないように被せる。
床は防音マットが敷いてあるので底冷えしないはずだ。そんな配慮より、今恋人が求めているのは「創作によって疲れ眠ってしまった」という事実なのだから、私は邪魔しないことにした。

指先についた、乾いた絵の具の色は形容し難い。私の知らない色の世界で恋人は何を表現したいのだろう。この絵は、完成するのだろうか。

私はアトリエを後にした。

私も目が覚めたので、再び眠気を覚えるまでデスクに向かって仕事を始める。少し面倒に思っていた詩評の依頼をやってしまおうと思った。他者の詩についてあれこれ言えるほど自分の詩は上手ではないはずだけど、これがこの環境で私が唯一できる仕事なので仕方がない。

集中しだすと間もなく朝が来たので、朝靄の中ブルーベリーや野イチゴを取りに出た。私が家に戻ると廊下はすっかり明るくなっていたが、未だにアトリエから光が漏れているのが分かる。

まだ寝ているのだろう。さすがに起こそうと思った。

「開けるよ」
先程よりも声に力が入っているのに気付く。


恋人は毛布に包まったまま、泣いていた。
「どうしたの」私は駆け寄る。

「ごめんね、ごめんね…ここで暮らしたら、絶対に描けるって思っていたのに。思ったままのこと、思ったまま描けるって思っていたのに」戸惑いの色をキャンバスに浮かばせて恋人は白く震えている。

「ああ、大丈夫、大丈夫よ」私は毛布ごと抱きしめる。
恋人の弱さを私は長い間知らなかった。


外の世界は恋人に”強くあること”を強制していた。

私たちが男であり女だった時、世界はとても狭かった。
今こうして二人だけの世界を求めてこのアトリエは弱さを出しても良い場所になった。

誰も女であり男であった私たちを咎めない。

私の恋人。私はこの冷たい世界であなたの毛布になりたい。
疲れた時に逃げ場にしてもいい。

あなたに何もしてあげられないけれど、帰ってくる場所になってあげたい。死が私たちを分かつ日が来てもこの愛情はなくならない。

今は、私たちもいつか非難されず孤独に終える日がこないことを願いながら生きる。





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