都会のにおい
ぼくには自分で作ったものを自分で壊しておいて、それを嘆く時代があった。
不誠実な人間を不誠実に愛して、深く傷つけあう時代があった。
幸せに見える何もかもが、決して触れられない幻に見えた時代があった。
愚かだった。
孤独だった。
そして、そんな不幸な自分を心の底では愛していた。
夜中、汗だくで目覚めた。横には長髪の女が眠っている。彼女を起こさぬように裸のまま浴室にむかった。
温水を浴びてはじめて自分の体が冷え切っていた事に気付く。自分の弱さから恋人を裏切った愚かな時代が、悪夢となってぼくに還ってきている気がした。膝が震えている。
自分の欲望に誠実でありながら他人に愛と信頼を求めるなんて不可能だ。濡れた手を見つめる。
明日も雨が降るらしい。
○
友人であるカワモトは孤独に負けて他人を苦しめ、傷つけておきながら身勝手にもそのことを嘆き苦しんでいた。
ぼくは数日前のある夜、懺悔のようなものを聞かされながらオールドクロウをダブルで飲んでいた。彼の言っていることは分かる。ぼくも似たようなことを女にしたこともあった。話を聞いている間、自分の醜い過去を見ているようだった。酔うまで後何杯飲まなけりゃならないのか知りたかったほどだ。
カワモトがある女にやってしまった極まり悪い出来事を、まるでカワモト本人が被害者のようにぼくに伝える。
俺がこうなったのは家庭環境が…
昔いじめられた経験があって…
女に裏切られたことがあって…
今の時代はトラウマの大安売りか。
ぼくは話を切り出す。
「他人を傷つけておいて自分が苦しむだなんて、そんな身勝手なこと赦されるわけがないだろう。お前は苦しんだんじゃない。ただ、自分のことが大好きで、女の心を弄んで楽しんだだけだよ。」
カワモトはぼくに懺悔を聞いて欲しかっただけだろう。
ぼくはさらに続けた。
「だいたい都会に生きるおれたちが、孤独や後悔を感じてどうする?『俺は孤独です』とか『そんな俺をみてください』とか他人に要求して何になる?人の前で自己言及ばかりして承認欲求を満たそうとすることに何か意味があるのか?」
カワモトは宛もなく照明を見ていた。
ぼくは続けて言う。
「人間は聞きたいことだけ聞く生き物だから、お前はきっと聞こえても理解しないかもしれない。だからこそ言うが、お前さ、自分に同情するのはやめろよ。」
過去の自分に向けて言うようでぼくは昂ぶっていたかもしれない。カワモトは悔し涙を瞳に浮かべた。
ぼくも昔、誰かに似たようなことを言われたら良かった、と思った。
○
ぼくの好きな人が、ぼくの知らない人に恋心を抱いている。彼女の名はモエという。モエは、ぼくと知り合うより以前に肉体関係を持っていた妻子持ちの男が忘れられないでいるらしい。
ぼくは傍観者の気分で生活していたがそうではなかった。ぼくも街に生きるただの男だったのだ。
ぼくは「そういう話は会ってしようよ。今日は眠ったほうがいいと思う」そうメールした。
ぼくはモエと何度か寝た。何度か旅行にも出た。モエは乳首が隠れるほど長く伸びた髪を大事にしていて、一度風呂に入ったら出てくるまで時間のかかる女だった。
二度目のセックスをしている最中に、モエともいつか会えなくなる日が来るんだろうな、と思った。ぼくがモエを好きになった瞬間だったと思う。
妻子があっても若い女と寝たい男と、そんな男と寝てしまう女、そんな女が好きなぼく。
まだ来ていない別れが、いつか訪れる日をぼくは恐れていた。
モエが酔って「妻子持ちの男がまだ好きだ」といった内容のメールをしてきた時、ぼくは返事せず他の女の家に行きかなり激しいセックスをして眠った。
○
孤独な魂が入った人間同士が寄り添ったとしても魂の性質は変わらない。二つの孤独がそこにあるだけだ。
都会に生きる男と女なら都会の人間を演じなければならない。都会の人間は孤独を感じてはいけない。
路地裏には誰にも救われない猫の死骸があることを想像してはいけない。その猫は君が昔捨てた猫だ。君が捨てた後、街をさまよったあげく雑踏という孤独群の中で、ひっそり餓死していった。
○
今朝目覚めたとき、ぼくの肩を枕にしてカナエという女が眠っていた。
再び眠る。浅い夢を見る。不安な心は悲しい夢を持ってくる。悲しみは夢の中でさえぼくを離さない。ぼくはこれからも一人なのだ。
汗だくになって目覚めた。カナエが心配そうにぼくを見ていた。
「どうしたの。悪い夢をみていたの?」
「そうなんだ。悪い夢ばかりみるんだ」
「どんな夢?」
「忘れた」
本当は覚えていた。
「おっぱい、触らせて」
「いいよ」
「なにカップ?」
「ぎりぎりFあるかなってところ」
「ちっちゃいな」
「挟んで窒息させてやろうか!」
「隙間だらけだぜ」
いくらじゃれ合っても孤独は消えない。
「シャワー浴びてきなよ。シャツ、こないだうちに置いてったの、洗っといたから」とカナエは言う。ありがとうと言うと、それを受け取って裸のまま浴室に向かう。
シャワーから出てシャツに袖を通すと柔軟剤の良い香りがした。
食卓にはオムライスが置いてあった。
「おれが好きなやつ、わかってるな。ありがとう。美味しそう」と調子よく言う。
「前に、オムライスが好きって言ってたから」
毎日一緒にご飯を食べているかのようにぼくとカナエは他愛ない話をした。
ふいに「今晩は予定あるの?」と聞かれた。予定はなかったが合コンがあると言った。このまま二人でいると、素直な男になってしまいそうだった。
食後しばらくしてまたセックスした。セックスの最中にモエが脳裏に浮かんだ。
目の前にいるカナエに何かを悟られそうで、顔が見えないように後ろから抱いた。
遠くから聞こえる車が走る音と、激しくぶつかりあう音と、カナエの喘ぎ声。
ぼくは一体誰なんだ。
○
夕方、眠るカナエに気付かれないように部屋から出た。出てくる時に冷蔵庫からビールを取ってきた。エレベーターを待っている間、廊下の端までいき缶ビールを開ける。高層マンションから見下ろす街並みは静かで空が広くみえる。
大阪では、これほど高い所に来なければ空を感じられないのだろうか。
「21階です」とエレベーターから聞こえ扉が開いた。長く伸びたぼくの髪から、カナエの髪と同じ匂いがする。
エレベーターに乗ってスマートフォンをみる。カワモトからメールが来ていた。本文には「気持ちが伝わらないって悲しいな」と書いてあった。ぼくは「そうだな。悲しいな」と送り返した。
都会に生きる人間が孤独を感じてどうする。
そう呟いても孤独は消えない。
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