失踪
小説を書こうとする時、おれは筆先で震える。空白のページを埋めよと空白のページに脅され、書けぬ時は何故書けないのか書けと空白はまたおれを脅す。
おれは恐ろしくなって、まるで足も届かぬほど沖に流された、浮き輪にしがみつく子供のように嘆き叫ぶ。
何かが降りてくるまで苦しみ続けて書き、文章が降りてきたときは安心を感じる間も無く流れに文字を任せて書く。やがて雑念が筆を止めるまで書き続ける。
何度も息を止めて潜った文学という名の海を泳ぐ。それにどうにか終止符を打って、安堵した気で陸に上がってくると、その海はなんと見返えせば見返すほど美しくないもののように思えてくる。
工場地帯のそばに流れる海のように汚れてみえる。何と濁った海だ!こんな海を泳いだつもりはない!それに、もうこの海と自分は関係ない!
おれは声を荒げて放つ。
そのためおれは書いた小説や詩を幾度も幾度も捨ててきた。推敲を重ねた作品ですら激昂を抑え切れず捨てた。
自分の創ったものは全て知識や経験の不足を露呈しているもののようにしか見えなかった。そのようなものを他人に見せたり、聞かせたりする無責任さや重圧におれは耐えきれなかった。
物語もなくおれの文章は、また誰のためでもなくおれのためにあり、そのためおれは自分勝手によく苦しむ。裸の筆が欲しいと思うたびに船荷は海に捨てていかねばならない。その船荷は全て船上生活のために必要なものであったというのに。
おれは命という名のいつ尽きるか分からない天然資源を燃やして航海を続けている。もっと遠くもっと深い場所に向うためにあらゆる船荷を積んだがやがて航海を続けるために必要なものは捨てることにあるのだと気付いた。その頃には何が必要で何が不必要か分からなくなっていた。この小さな船によくこれほど積めたものだ、と他人事のように呟いて後は途方もなく沈みゆく船荷を眺める。
誰の意識も混在することない文章、あらゆる事象はおれの内にだけ起こる。この航海は孤独であった。
おれは目覚めると朝の光に怯える。
「全て幻」そう呟かせるのは光か風か夢か。
おれはよく苦しい夢をみる。今朝はこんな夢をみた。夢の中でふと気付くと、雨に濡れた大きな壁の前に立っていた。おれはここに立たされている理由を知らない。ただ大きな壁が立ちはだかっていた。壁の反対側から何やら壁の向こうから楽しげな声が聞こえてくる。おれの知っている者たちの声だ。耳をすましてみても会話の内容は聞こえない。笑い声だけが聞こえる。
大きな声で呼んでみても返事はない。しばらく呼んでも返事がないので呼ぶのは諦めた。
急に不安が背中を叩く。どうして、おれが参加していない秘密の集まりがあって、どうしておれがいなくともあれほど楽しそうなのだ。
おれは仲間はずれの感が胸の内で増してゆくのを覚え、どんどん苦しくなってきた。あれほど仲良くしたかった人たちがおれ抜きで楽しんでいるなんて…そう思えば思うほど、苦しみは更に増していった。
不安だけ胸に残して目覚めた。おれはこんな不安な夢ばかり見る。
おれは子供の頃から頭が悪くまた自己顕示欲も強かったために恥の多い少年時代を過ごした。友達が多かったとかいてなかったとかそういう話ではなく、平均的な男の子ではなかったと思う。というのは級友だけでなく家族も一人残らずおれをよく笑った。変わり者として取り扱った。父親も兄弟もいなかったおれは、なにを参考に男を始めれば良いのか分からなかったし、この街で参考にできる男もいなかった。
普通になりたいと言えば普通の人はそのような事すら考えないと皆はまたおれを笑う。
おれには、見る物手に取る物全てがまるで取扱説明書のない複雑な機械のように思えた。
決して彼女ら家族や友達をこの場に晒し責任を求めたいわけではない。ただおれの人格を成した根底には笑われて育ったという要素が含まれているのだとだけ述べたい。
ただ単に、ロールモデルを決めれないでいたのだ。
おれと似た環境に育った男達にも強く平然とやっている者も多々いるだろう。そして彼女ら家族はいたずらにおれを笑い続けた訳でもない。道を自ら堂々と踏み外していく自分を見捨てたりはしなかった。
どの家庭でもどこか複雑な問題を抱え込んでいる。同様におれの家庭にも簡単に表面化されない問題が横たわっていた。一つの例を言えば、たとえばおれは家族の誰かに対して何か極まりの悪い事をした。母や姉達はおれを叱らない。叱ればおれがひどくヘソを曲げるのを知っているからだ。その背景のためにおれがどういう極まり悪い事をしたのかというのはおれ以外の家族で話される。おれはしばらくその事に気付かない。けれど事の終わったずっと後になって何気ない会話から「おれの悪事を影で話し合っていたのだな」と分かる時が多々あった。おれはそれが嫌いだった
おれに直接不満を言わないのが不気味に感じておれは更に機嫌を悪くした。ジレンマがこのようにして頻繁に発生した。そのためか家族の方針についてはおれがいない時によく定められた。確かにおれは自由奔放で、甘やかされて育った末っ子の長男だ。
またおれは家族に迷惑をかけるだけかけた。おれが決めた自分の将来についてはいつでも受け止めてくれていたと思う。高校の選択も決めた所以外は絶対に行かないと言った。卒業しても大学には行かず就職もしないと言った。趣味であった音楽や造形で生計を立てようとし、反対意見のひとつも聞かなかった。一年の海外生活についても全部勝手に決めて行った。
ここまで自由にさせてもらって尚、どうしておれは疎外感を感じているのだろう。おれを知っている者はよく自分は家族や友達から、また恋人からも愛されているというのに何故孤独を感じて飲み歩くのかと言われるが、理由は俺にも分からない。
愛されてはいるのだろう。
しかしおれはおれだけを愛していた。
○
生きるとは属するということ。
どこにも属せなかった自分は属したいという願い憧れだけで生活を続ける。そしていざ属することのできる機会があった時にはおれはその権利を悉く放棄した。
不幸な者は幸福を受け取るのもまた下手だ。おれは恵まれた仕事や恋愛さえも放棄してきた。永遠を手に入れる努力すらしないのに「永遠などない」と諦めた振りをする人のようにおれは幸福を支える努力を怠って、すぐに投げだす傾向があった。
○
ある日、おれは人生に深く悔いの残る失敗を遣った。
その失敗のためにある者は深く悲しみ、ある者は空白の人となり、ある者は人格が曲がり、ある者は逃げ、ある者は死んだ。おれはそれほど取り返しのつかない失敗を犯した。
その失敗は不注意による事故や偶然が成した結果ではない。おれの持つ強烈な怨恨という感情がこの人生揺るがすほどの事態を引き起こしたのだ。
その失敗は強烈な呪縛だ。
おれが過去を捨てられない以上この人生そのものを縛り付ける。
その失敗はよくおれに自殺しろという。文字通り、自分を殺せと迫った。
どう抗ってもその命令は止まないのでいよいよ自分を殺そうとすると、今度は死んでどうする、生きろ生きろとおれを弄ぶ。おれは弄ばれる度に人生や愛が何か分からなくなった。まず自信から崩れ始め、価値観、信念、論理武装の何もかもが瓦解する。
「人生?愛?分らなくなる?分かっていた時などただの数秒でもなかっただろう」
呪縛はそうおれに言わせた。
おれもおれでそう口に出して言った後で「おれには意思がない」と思わざるを得ず困惑するだけの状態となる。
急に光と影が入れ替わったように全てが愚かさに染まる。
黒いペンキをぶちまけたようにいきなり心は濁りはじめた。
毎日逃げるように酒を飲み、逃げたい物の存在すら忘れるほど飲んで、狂って迎えた朝日にまた怯えた。
おれの過去に触れた者はみんな、包帯を巻く気がないのに傷口に触れる人たちのようだった。
おれはおれで自分に同情していたことを深く改めなければならない。白状することで過去から逃げようとしていた。
酒以外にもいくつか忘我する手段をとった。
幾つかの幻覚がおれに喜びと悲しみを教えた。
朝方、瑠璃色の光が部屋を包みだした頃おれはカーテンに隠れながら、もしずっと狂っていられるならそれが良い。常識も正義も分別も正直さもなくしておれは狂ったままが良い。そのほうが真面目な社会のなかで孤独に彷徨っているよりずっと救われているように思えた。
どうやったってこの世界に戻ってきてしまうなら、きっと狂った者だけが正しいはずだろうと空虚な自分の残り少ない力で思った。
○
自分を「気を使うタイプ」と思っているうちは誰の何にも気付かない。そんなことは分かりようがないものだ。
酔えずに迎えたある朝、働きに街へ出てくる人達の群れのなかでそんなことを思っていた。(おれにも酔っていない夜があるのだ)
どうして人はある日何かに囚われて、フランツカフカの小説のように終わりも見えず彷徨うことになるのか。
さんざ悩んで行動するが、それこそカフカ文学のように結末を出せないのは何故なのか。
生きている気持ちは、生きている、たったそれだけの事なのにひどく孤独で、いつもどこかカフカ「城」の読後感に似ている。
信じれるものがなければ寂しいのが世の中で、何を信じれば良いのかすら分からず苦しむのが人間だというのか。
おれは、にぎやかな人たちの中で、孤独を感じる矛盾した人間だ。
朝。
瑠璃色の空気はこんなふうに弱くなるおれを包んでくれる。
それは昔からそうだ。
おれはずっと弱い。
そして夜が終わって朝がやってくる瞬間が好きだ。
○
おれは雨の日にひどく苦しみだす。一人泣き出して、どうして救われないのか嘆いてみてもいつの間にか背負った罪が重すぎて、どうやっても償えそうにない。
おれはこの牢屋の中で死んだその後も永遠に出してくれないだろうと恐怖の念で震える。
目の前にいつしか現れた針は眼球に触れたかと思うと間もなく網膜まで到達し、おれは叫び声すら出せず失明する。
倒れたおれに「こんなものさお前の人生ってやつは」と耳元で囁くのはいったいおれ以外の誰だと言うのか。
○
声が聞こえない所、誰もおれを知らない街へ行きたいと願うのは逃げだろうか。時々全て投げ出してしまいたくなる。
どこか暖かい場所へいき、仕事を見つけ、交友関係も一新し、そこで人生をリスタートさせたい。人生史は作り上げる。人格もそれに従って変える。大阪にいたおれと、新しい生活をはじめたおれには大した共通点はない。
やけに病気染みていて無理に明るく振舞わず、小さな世間に紛れ込んで誰も愛さずまた愛されず、それを時には嘆き涙を流すかも知れないがそのような状態に陥ったときバーや居酒屋で孤独を持て余し黙っていればいい。
おれは小さな部屋を探す。四畳半の部屋で十分だ。ただ静かな場所であればいい。駅は近くになくていい。スーパーやコンビニも近くなくていい。ただ近所付き合いは控えめにしたいと思う。
仕事は適当なものであればいい。ガソリンスタンドやコンビニの店員、飲食店とかそういうものも良いかもしれない。とりあえず仕事があればそれで良い。
帰り道ももう忘れてしまおう。
産んでくれた母や姉妹のことも生活から切り離された思い出として存在する。ちょうど別のおれが経験したことをこのおれが記憶しているといったように「失踪したおれ」は別の人生を歩むのだ。
だがおれは知っているつもりだ。現在の環境から逃げ出すことが本統の失踪ではないと。決して戻ってくることのない過去とその追憶が失踪への想いに駆り立てられる原因であることを。
おれは強くなりたい。そう思うときおれはいつも心でこう呟く。
過去は決して戻ってはこないのだからおれはそろそろ自分から別れを告げて去らねばならない。それに時間が過ぎていっているわけじゃない。時間はここに留まって、おれが勝手に過ぎていく。
おれはもうおれ自身の追憶には生きない。ときに耐えがたい過去がおれを掴んだり、熾烈な性欲が女の幻影を作り出してもそれを見つめたりしない。愛と孤独の世界には住まず、そうすることでおれはついに、おれ自身から失踪する。
コメント
コメントを投稿