くたばれ、この悲しみの中で

オスのハエは、メスに交尾を拒絶されると以後どんなメスに対しても消極的になるようだ。交尾の数が少ないオスは、交尾をしているオスに比べてアルコールの入った餌を摂取するようになるらしい。

そういうニュースが二年ほど前に流行った。馬鹿げた冗談だと思う。これが透けて人間に当てはめてしまう夜は眠れなくなる。

○
台北の夜は静かだ。明日も一人、たいした用事もないから出歩くことにした。

タクシーのラジオから台湾語が聞こえる。窓の外にあるネオンがおれの目から流れるように過ぎていく。信号待ちの際、看板に書いてある店名を読もうと試みた。ファミリーマートが"全家"と表示されているのを見て、声を出さない程度に関心した。運転手は一言も話さない。バーが並ぶ通りでタクシーを降りた。

街を歩く人々は、何について話しているのだろう。会話が聞き取れないからこそ興味が芽生える。交差点を渡っている最中に、停車中の車や原付を見渡す。おれの住んでいる大阪の風景とそう変わらないというのが正直な感想だ。

通りの向こう側から昔寝たことのある女がこちら側へと歩いてくる。当然、違う女だとは知っている。この女もおれに近づけば近づくほど違う女になっていくだろうと目を閉じ、女が過ぎた頃に目を開けた。

また昔抱いた女の幻影を見た。どこまで行ってもそれはついてくる。日本だけではな くドイツ、オランダ、イギリス、チェコ、イタリア、ポーランド、アメリカ、アイスランドの僻地など日本人がいないところまでも幻影はついてくる。きっと墓にまでついてくるだろう。

おれは、愛した女と過ごした記憶そのほとんどを忘れた後で詩を書くような人間だ。
そういうこじらせたナルシシズムを抱いて生きている。
悲しみにすら価値がないと知ってから、人生はどうしようもなく下らないものだと分かった。だから、もうおれはそういう自惚れ - ナルシシズムは捨てられないだろう。

将来像もない漂白の37歳。妹を失った苦しみを未だに忘れることが出来ず女と酒に逃げて忘れようとする毎日を過ごす。おれには旅行できるほどの稼ぎがない。今回の台湾旅行だって女にもらった金で来たものだ。

-これだけあげるから、もう私の前に現れないで-
あの女はそう言った。
おれは黙って金を受け取って、その足で飲みに行き、他の女の家に行って眠った。
あの女が考えていたことはもうおれには分からない。ただおれもこれ以上愛されること、愛し返せないことに疲れていた。

女も酒も当然傷を癒すものではない。それらは一緒にいればいるほどおれを苦しめる存在へと変わるものだ。

いったいこのナルシシズムの終わりはどこにあるのか。
この孤独はいったい何のためにあるのか。

おれはいつまで、こんな男なのだろう。

林森北路にいくつか並んであるバーのうち、若者がいなさそうな静かなところに入った。入店するとまず英語か日本語しか話せない旨を伝えた。英語なら大丈夫、そう席に通された。台湾には過去4度ほど来たが、このバーに入るのは初めてだった。

"I'll have a double bourbon with water back."(バーボンをダブルで。チェイサーもつけてくれ)そう注文した。簡単な英語でも久しぶりに声に出すと緊張を感じる。

バーボンの入ったグラスを眺めながら「おれがおれ自身の傷を癒すために、あと何人傷つければいいんだろうな」そう小さく呟いてから飲んだ。誰にも聞かれていないのは当然知っている。

おれは酒よりも自分に酔う。いつも、そうだ。だがそれで誰の気にもされず且つ酔いすぎてその日何もかも忘れられるのなら誰からも非難されようがないだろう。
心の中で他人との壁を作ることも、今では苦でも何でもない。

おれはおれだけ愛していればいい。

30分もするとバーが混み出してきた。横に座った日本人の女が話しかけてきた。黒髪ショートヘア、小柄で華奢に見える。黒と白のストライプのドレスから伸びた腕は店内の照明に反射して不思議な輝きをみせた。少し酔っているように見えた。おれはバーボンを少し多めに飲んだ。

聞けばこの女も観光で来ているようだった。日本人の女は、日本だけでなく外国でも一人で飲み歩くようだ。以前アメリカに住んでいた時、バーで女が一人で飲んでいる光景はなかった。それだけ日本の女は特異だと思う。
ヤマトナデシコなどと言われ良いカモ扱いされている女は、男の性欲に蹂躙されるなかで何を考えているのだろう。

その夜、おれは女をホテルに連れて帰って抱いた。この女は"自分を知らない男なら"誰でも良かった。おれも、おれを知らない女なら誰でも良かった。
ホテルは誰かを連れ込めるように作られていたし、おれもそういうホテルを選んでいた。おれの脳細胞はアルコールでボロボロだがまだそういう脳細胞は働くようだった。おれは自分からコンドームを装着するほど理性が働いていた。

おれは酔っている振りをやめて激しく女を抱いた。好きな男の名を言わせた。女もセックスの途中で酔っているふりをやめた。好きな男の名を喘ぎながら発していた。射精してもコンドームに阻まれたおれたちの恋愛は始まりそうにない。
無意味な快楽を貪った後、女が「今日のことは忘れてね」と言った。おれはそれを聞いて安心して眠った。

おれは、独りだ。

 ○
浅い眠りから目覚める。少し開いたカーテンの隙間から差し込む光がおれの左手を照らしていた。さっきまで見ていた夢は忘れた。女はもういなかった。

おれはさよならも言わずに去っていく女が嫌いだ。おれを独りだと気付かせる女はいつも人生の上手いやり過ごし方を知っていて、なのにおれにはそのやり方の一つも教えてくれない。

昨晩大量に買い込んで、ひとつも開けていないビール缶を冷蔵庫から取り出して飲んだ。女の名は聞いたはずなのに忘れた。

パンツを脱いで浴室へむかう。鏡に写った自分の体を見る。最近は少し痩せたように見える。疲れが体から滲み出ているように見える。

女は昨晩、股の下に潜り込んでおれの性器を銜え、音を立てて動かしていた。シャワーを浴びながらその姿だけ思い出していた。浴室から出て髪を乾かし、少し気分が落ち着いた所でもう一眠りした。

最後におれを好きだと言ったのは誰なのだろうと思うと、夢は悲痛に満ちたものになった。

○
妹は、薬物依存症だった。おれと同じで、シラフではこの世界は生きていけない性格だった。妹は抜け出そうとしていたが無理だった。
ドラッグの代わりに手を出したのはアルコールだった。依存する先を見つけられたら薬物は止められると思っていたのだろう。おれが気付いた時にはもう全てが遅かったし、たとえ早期発見できたとしても結末は変わらなかっただろう。

酔い潰れてうつ伏せになって寝ている時に嘔吐し、吐瀉物が喉に詰まり死んだ。それが妹の最後だった。

おれの人生もその時実はもう死んでいて、その表面にはチアノーゼを浮かばせているはずだ。

移送中、母が妹の名を呼んでいた。地獄があったとしたら、こういうのを地獄と呼ぶのだろう。闇にむかって優しく呼びかける悲痛の声は、誰にも届かず心拍計を揺らせた。

涙の数だけ強くなれるとか、悲しみを知って喜びを知るとか言うけれど、そんなことはありえないとだけ書いておく。妹の死を悲しんで、悲しんで、悲しんでいるうちにおれはいつしか悲しみの中に安らぎを見いだすようになっていた。これが果たして強さと言えるか?

どうしようもない人生、くだらない毎日。あれから何か一つでもおれはこの世界を楽しんでいるだろうか。おれという魂がこの肉体に内包されている限り、おれはこの体を楽しませてやっているが、そんなものかりそめに過ぎない。

僅かながらおれの孤独を癒してくれた過去の女たち、本や、楽器や、映画は時々は"おれはもう救われたのではないか"と思わせてくれたが、今日みたいな日には意味をなさない。おれは馬鹿な男だ。今までも、これからも真実は見えない。

妹の死を忘れる日は来ないだろう。忘れてしまうくらいなら毎日毎晩、苦しい夢を見続けていたいと思う。

独立した国、台北の昼。おれのような来訪者に、おれの居場所を教えてくれるわけでもない。おれは光の中で漂い、独りである悲しみと喜びに身を浸して泣いた。

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